カトリック長崎大司教区


2018年 7月 23日

7月22日 浦上四番崩れ 旅の始まり150周年記念行事

Blog, by 広報委員会.

 7月22日(日)12時30分から浦上教会で「浦上四番崩れ 旅の始まり150周年」を記念するシンポジウムとロザリオの祈り、ミサが行われた。他教区の人々も含めた約800人が集い、共に祈りをささげた。

 写真は、流配先の6教区(名古屋・京都・大阪・広島・高松・鹿児島)の代表者が登壇したシンポジウムと、ミサで説教をする髙見大司教、ミサでの祈りの様子。

2018-07-22旅の始まり150周年記念シンポジウムでのスライド.pdf ←2018-07-31追加しました。

 

《2018年7月22日(日)浦上四番崩れ「“旅”の始まり」150周年記念ミサ 髙見三明大司教の説教》

第一朗読 哀歌 5・1-5,19-21

第二朗読 フィリピの信徒への手紙 1・12-18

福音朗読 マルコ 13・9-13

 

1.150年前の旅の始まり

 150年前の7月20日(一昨日)、浦上キリシタンの“旅”が始まりました。およそ3,380名の信者のうち、114名が最初に流罪の処分を受けたのです。萩に66名、津和野に28名、福山に20名でした。彼らは、朝5時には浦上を出発し、6時までに西役所(県庁跡)に出頭しました。終日門前に立たされた末、夕方、中庭の白州の上に座らせられ、こう言い渡されました。「その方どもは異宗を信仰いたし、天下のご法度を破った者だから、厳罰に処せられるはずであるが、無学の百姓につき高大なる御恩恵により他国に預け置かれる。」そして流配地と人数が告げられました。それから数百人の鉄砲隊が並ぶ中を大波止に下って行き、団平船に乗せられ、さらに蒸気船に移されました。大浦天主堂の下を通るとき、天主堂を見納めと思って十字架の方を向いて、手を合わせて拝み、主の祈りを一緒に唱えました。神父様たちも遠くから彼らの姿を見て、おそらく祝福を与えたと思います。彼らにはそうする以外なすすべがありませんでした。蒸気船は翌21日の朝、長崎を出ました。これが“旅”の始まりでした。それは殉教を覚悟した旅でした。信仰を証しするためにいのちをささげるという覚悟をした旅だったのです。彼らは旅の間ずっと祈っていたといいます。

 

2.なぜこのような旅を始めることになったのでしょうか?

 それは3年前のあの出来事、つまり「日本の信徒発見」に遡ります。「日本の信徒発見」は事実上日本におけるカトリック教会の復活の始まりでした。それは始まりであって、本当の復活まではまだ時が必要でした。しかもその時は受難と死の時でした。「日本の信徒発見」の後2年間、浦上の信者たちは、大浦にいる神父様たちを頻繁に訪ね、また神父様たちも変装し、闇夜に紛れて彼らの秘密教会を訪ね、有効でないと判断した場合条件付きで洗礼を授け、要理をあらたに教え、ミサをささげるなどしました。そうした恵みの時を過ごすうちに、信徒たちは次第に、しかし確実に心の平安と喜びをかみしめ、勇気と希望が湧くのを実感していったにちがいありません。

 実際、「日本の信徒発見」の2年後、1867年4月、ある家族の誰かが亡くなった時、本来なら寺の住職を呼ばないといけないのに、呼ばないで自分たちで葬儀を行う遺族が相次いで出てきたのです。遂に大部分の信者たちが、勇気を奮い起こして高谷庄屋に行き、自分たちはウワノソラで仏教徒でした、ほんとうはキリシタンですので、聖徳寺とは檀家としての縁を切りたい、と申し出たのです。庄屋は無視できない一大事として、長崎奉行所に訴え出ました。

 そこで長崎奉行は禁教令違反の実情を探索し、満を持して7月15日午前3時頃、一斉検挙のため4つの秘密教会に突然踏み込み、68名を捕縛、牢に入れました。最終的に83名になった入牢者は、過酷な拷問のため高木仙右衛門以外棄教しましたが、幸い、帰宅後立ち帰りました。これが浦上四番崩れです。

 ところで幕府は浦上キリシタンの処分問題を解決しないまま大政を奉還し、翌年明治政府が誕生しました。幕府のキリシタン禁教政策を踏襲した新政府は、諸外国の抗議にもかかわらず、最終的に20藩22箇所への一村総流罪を決定したのです。この決定を受けて、処分が順次執行されていきました。こうして、114名のグループが最初に浦上を後にすることになったわけであります。残りのおよそ3,270名の信者たちの“旅”は、2年後の1870年1月から始まりました。

 

3.この先祖の旅にはどんな意味があるのでしょうか?

(1)浦上の信者たちは、この地上に永遠に存続する都はなく、自分たちの本国は天にある(フィリ3・20a)と信じていましたので、来るべき都を目ざしていたと思います(ヘブ13・14参照)。つまり、旅をすることによって、「自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」「もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」(ヘブ11・13b-16a参照)

(2)彼らの旅は普通の旅ではなく、神への忠実さを貫いて殉教を覚悟し殉教に向かう旅、真の幸福に向かう旅だったのです。そのため家や田畑を後に残し、ほとんど着の身着のまま家を出たのでした。また流配地では開墾などに従事させられる場合もありました。

 第一朗読の『哀歌』に書かれているように、イスラエルの民が新バビロニア帝国に滅ぼされ、捕らわれの身となってバビロンに連行されたのに似ています。彼らの財産はよその国の人たちのものになり、家は異国の人たちのものとなりました。また首には軛を負わされて追い立てられ、疲れても、憩いはありませんでした。

(3)殉教は死ぬことによって信仰を証しすることですが、信仰のゆえに捕らえられ、流され、苦痛を与えられながら、それを受け止めていくことによって信仰を人々に証しすることでもあります。イエス様は、「あなたがたはわたしのために世の権力者の前に立たされるが、それは証しをする機会となる。その時には、教えられることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊である」と教えておられます。パウロも、信仰のために投獄され、大変苦しみましたが、そのような状況にあっても福音を証ししました。浦上の先祖の旅そのものが信仰を証しし、また証しする機会となったのです。

たとえば、徳島に流された深井咲太郎は、17歳でしたが、日本には宗教はいくつもあるのに、わざわざ外国のものを信仰しなくてもいいのではないかと問われると、日本の宗教ではアニマ(霊魂)は助かりません。あなたたちが日輪(太陽)を拝むというなら、わたしたちはその日輪をつくったお方を拝むのです、と言ってつっぱねました。さらに、肉親を取るというのであれば、命を投げ出しにきているので喜んで差し上げる。しかしアニマだけはどんなことがあっても渡さないという強い気持ちをぶつけています。

 

結び

 バビロンに流されたイスラエルの人々は、希望を失わず、主にこう祈りました。「わたしたちの日々を新しくして昔のようにしてください。」獄中にあった聖パウロもこう述べています。「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリ1・20-21)このことばには永遠のいのちへの希望があふれています。イエス様は、迫害の予告を「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」という力強いおことばで締めくくっておられます。

 流罪を言い渡された浦上の先祖たちの中には、旅に出るため出頭しなかった者、つまり信仰を捨てる者もいれば、旅の途中あるいは旅先で棄教した者、また後で「改心戻し」をして信仰に立ち帰る者もいました。しかし大方の信者は、殉教を覚悟の上で旅に出て、旅先では飢えと寒さ、拷問などの苦しみを味わいました。そして津和野や萩など各地で殉教する者もいました。

 このように、旅の始まりと旅の途中、また旅先でさまざまな艱難を味わい、病気で死に、あるいは殉教し、棄教や立ち帰りのときでも心がうずいたにちがいありません。しかしこのような受難と死は、日本の教会が実際に復活し再出発するために神が与えてくださったものだといえます。それは1873年の春まで数年間続くことになります。実は、浦上の先祖の旅の始まりから1週間後、プティジャン司教様は、クザン神父様に命じて、10名の若者をペナンの神学校へ連れて行かせました。7月28日に密かに長崎港を出ています。これもまた教会の復活に備えた神様の計らいでした。

 皆様、この旅の始まりを記念し祈る私たちに、神様の前にこれからも私たちが自分たちの信仰をおそれなく喜んで証しすることができるよう、必要な恵みをお祈りしたいと思います。

—————(説教ここまで)—————

 

※説教の中で示されている、歴史にかかわる数字などは特定の資料をもとにしたものです。

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