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教区の歴史

長崎の教会・・・・・日本二十六聖人記念館長 結城了悟

(1989年発行)

1.教会の誕生2.港の教会3.長崎教会の黄金時代4.長崎の十字架の道

 現在の長崎教区の地に福音の最初の種を蒔いたのは、言うまでもなく聖フランシスコ・ザビエルであった。1550年8月末頃に鹿児島から船で西九州の海岸に沿って樺島に着き、そこから平戸へ赴いた。平戸では数人に洗礼を授け、その信者の共同体をコスメ・デ・トーレス神父に任せた。ザビエルはその道を開拓し、トーレスは最初の牧者となった。つづいて、バルタザル・ガゴ神父、ガスパル・ヴィレラ神父、イルマン、ルイス・デ・アルメイダなどがその教会を育てた。ガゴ神父から洗礼を受けた籠手田家は、平戸の教会の柱となった。こうして生まれた日本最初の教会は、消えることなく今日まで存続している。

 1562年7月には、教会の道に新しい門が開かれた。ルイス・デ・アルメイダをはじめトーレス神父、イルマン、ジョアン・フェルナンデスが横瀬浦の教会を育て、そこからその年の暮れには平戸の根獅子、生月、度島に布教した。

 1年後の1563年には横瀬浦から宣教が広がり、西彼杵半島の村々の主だった人々が洗礼を受けていた。同年4月には、ルイス・アルメイダが有馬領内に入り、島原と口之津に教会を開いた。ついに、6月初めごろ大村純忠と20名の家臣たちが横瀬浦の教会で受洗した。

 その年の秋に横瀬浦が破壊され、トーレスは口之津に移り住み、そこから布教活動に対して指導を与えていた。1564年、福田と平戸に教会が完成し、1565年アルメイダとイルマン、ロレンソによって五島の福江と奥浦に教会が建てられた。福田の信仰の火花が戸町へと飛んだ。

 こうして長崎教区の全地域に福音が宣べ伝えられていた1567年大村純忠は口之津にいたトーレス神父を訪れ、その話合いの結果で、ルイス・デ・アルメイダは長崎に入り、すでに信者であったベルナルド長崎甚左衛門から土地と小さな寺を受けた。1568年トーレスも長崎を訪れ、福田の宣教師ヴィレラ神父を長崎に任命し、自分は大村に移った。そこで12月8日、無原罪の聖母に捧げられた教会を三城城の麓に開いた。

 長崎でのヴィレラの宣教は効果的で、1569年11月1日諸聖人に捧げられた教会が完成した。『小さくて美しい』その教会に1570年の春にはトーレス神父も移り、いろいろの試練を乗り越えて信仰を守り続けた大村純忠が、トーレス神父を見舞いに訪れている。

 ザビエルが平戸に着いてから20年目には、現在の長崎教区の至る所で布教が行われ、その活動の結果がもう一つの出来事を招いた。1570年7月には、来日した新しい布教長フランシスコ・カブラル神父が天草の志岐(苓北町)で宣教師会議を開き、その会議で長崎の新しい町と港の問題が協議決定された。10月にトーレス神父が志岐において聖なる死を遂げた頃、フィゲレイド神父は福田から長崎湾に入り、卜ラバソス船長と一緒に新しい港の位置を決めた。

 1571年の春には、大村純忠の家老朝長対馬守が長崎の最初の六か町を開いた。トーレス神父は、大村純忠と話し合った時、他の地で迫害されていた信者たちに分け与えるため一つの土地を頼んだ。それは長崎の静かな海に突き出ていた松と薮で覆われた細長い港であった。そこに朝長が最初の町をつくり、その先端の所(現・長崎県庁)にフィゲレイド神父は小さな教会を建てた。聖母マリアに捧げられたこの教会は次第に大きくなり、日本の教会の中心となるまでに発展するのである。

 1580年には、アレッサンドロ・ヴァリニヤーノ神父が長崎を訪れた時、新しい港町は四百戸ぐらいの町で、二つの教会、トードス・オス・サントスと被昇天の聖母の教会があった。その年、大村純忠が後に内町と呼ばれた港町をイエズス会に寄進したので教会の発展は更に大きかった。1583年一人の信者ジュスティノ・カサリアの努力によってミゼリコルディアの組が設立され、その本部が興善町に置かれ、そこには聖堂ができた。

 1584年には長崎の教会に大きな影響を及ぼしたもう一つの出来事があった。有馬晴信が自分の支配下にあった浦上地方をイエズス会に与えた。この時から浦上の村々がキリシタンになった。

 何時からか明らかではないが、この頃より長崎では信者の信心を集める二つの巡礼地があった。一つは立山の麓にあったサンタ・マリアの小聖堂で市民の憩いの場所でもあった。もう一つは、浦上川の辺に建てられたサンタ・クララ小聖堂で船員たちに特に親しまれていた。岬の教会は1581年増改築されたが、すぐに手狭になって1585年には更に大きな教会の建設のため工事がすすめられたが、工事半ばにして1587年豊臣秀吉の禁教令が発布された。

 しかし、禁教令にも拘らず長崎の教会は生き残った。岬の教会は1590年まで閉鎖されたが、イエズス会員はトードス・オス・サントスとミゼリコルディアの組の教会を利用していた。岬の新しい教会は遂に1590年に完成したが、2年後、秀吉の命令によって取り壊された。その1年後、再び許されて建て直された。傍らにはイエズス会の本部が出来上がった。本部は、1596年日本の司教ドン・ペドロ・マルティンスを迎え、一時司教座でもあった。

 1592年には上町にサン・ラザロ病院がロケ・デ・メロ司令官の寄附によって建てられ、ミゼリコルディアの組がその経営に当たっていた。病院には付属の聖堂もあって、1594年聖ペトロ・バプチスタらが長崎を訪れた時、その聖堂を利用していた。また、同じころ浦上の入口にもう一つのサン・ラザロ病院がイエズス会によって建てられ、そこにも小聖堂があった。

 この長崎の教会は1597年2月5日、二十六聖人の証しを見た。殉教者の列が浦上のサン・ラザロの側(坂本町山王神社)に一休みし、その聖堂でパウロ三木たちが誓願を立てた。殉教者たちは尊い血をもって西坂の丘を潤した。その時以来、西坂は『聖なる山』または『殉教者の丘』と呼ばれ、信者たちの手によって殉教地は長崎で最初の公園となった。

 マルティンス司教は岬の教会の修道院の窓から殉教の場所を見ていたと言われる。彼は、その日の夕暮れに西坂まで行き、十字架の前で祈りを捧げたが、やむを得ず日本を離れなければならなった。殉教の少し前には司教は大村を訪れ、信者に堅信の秘跡を授けた。

 二十六聖人の殉教は長崎の教会の滅びではなく、新しい発展の起点であった。1598年秀吉が亡くなり、新しい司教ドン・ルイス・セルケイラとヴァリニヤーノ神父が長崎に着いた。

 一時、司教は天草に居たが、すぐに長崎に戻り、岬の教会の側に司教館を設け、そこで大神学校を開いた。また、ヴァリニヤーノの指導の下に岬の教会が改築されて、1601年セルケイラ司教の司式により献堂式が行われた。同年の秋、この教会で初めて二人の日本人、イエズス会のセバスチャン木村とルイス・ニアバラが司祭として叙階された。この頃、大村と有馬にも立派な教会が建立された。

 1601年から1614年までは、長崎の教会の黄金時代である。セルケイラ司教の賢明な指導の下に市内の教会はその数を増し、典礼などはトレントの公会議の決定に従って行われた。

 この13年の間に7人の教区司祭が叙階され、4人は主任司祭に任命された。他の二人は助任、残る一人は司教秘書であった。最初の小教区は山のサンタ・マリア教会で、主任はミゲル・アントニオ神父、第二はサン・ジョアン・バプチスタ教会(サン・ラザロ病院側、現・本蓮寺)で、主任はパウロ・ドス・サントス神父。第三は村山等安が息子のフランシスコ・アントニオ神父のために建立したサン・アントニオ教会で、本大工町にあり、助任はペトロ・クレメンテ神父であった。第四はサン・ペドロ教会で今町にあり、主任はロレンソ・ダ・クルス神父、助任はジョアン・ルドビコ神父であった。トマス・ドス・アンジョ神父は司教館付で、7人とも日本人であった。

 サン・アントニオとサン・ペドロ教会は1607年に建てられ、2年後には韓国人のために、もう一つの教会サン・ロレンソが建てられた。その場所は、おそらく高麗町(現・鍛冶屋町)にあったと考えられる。

 ミゼリコルディアの教会は増改築され、1603年メスキータ神父によって建てられたサンティアゴ病院の聖堂は、イエズス会に委ねられた小教区となった。被昇天の聖母教会は、司教座聖堂として利用された。

 他の修道会が長崎に入り、教会を建て始めたのは割合に遅かった。1609年ドミニコ会のサント・ドミンゴ教会(現・勝山小学校)、1611年フランシスコ会のサン・フランシスコ教会がクルス町(現・桜町)に建てられた。最後にサン・アウグスチノ教会が本古川町にできた。

 1601年炉滓町に墓地が造られ、そこにもサン・ミゲルに捧げられた小聖堂があった。稲佐の方にも教会があったが、それについての詳しい記録は残っていない。浦上のサンタ・クララ小聖堂は1606年、大村の宣教師が追放された時、増築されて大村と浦上の教会になった。

 岬の教会側のサン・パウロ学院が次第に発展し、長崎文化の中心になっていた。毎年のご聖体の行列が荘厳に行われ、その他の祝日も盛大に祝われ、長崎の教会の特色であった。1612年有馬の宣教師が追放された時、セミナリヨはトードス・オス・サントスに移された。ここでも教会が増改築され、その庭内には八代の殉教者の遺骨を納める小さな聖堂も造られた。この場所も巡礼地になっていた。

 しかし、長崎の光栄が突然に終わった。1614年1月27日、徳川家康が禁教令を発布した。この便りが長崎に届く少し前、2月16日セルケイラ司教が死亡した。

 教区司祭たちは、サン・ペドロ教会に集まり、司教代理としてイエズス会管区長バレンティン・カルワリヨ神父を選んだが、すでに教会の最期の日が数え始められていた。他の地方から追放された宣教師たちが長崎に集まってきた。金沢から追放された高山右近、内藤徳庵とその家族、また、都の比丘尼たちも長崎に入ってきた。

 信者たちの熱心さが盛り上がり、4月には神のあわれみを求めるため苦行の行列が行われた。11月7日・8日・9日と宣教師や信者たちがマカオとマニラへ向かって出帆した。その船が出るや否や教会の取り壊しが始まり、15日まで続いた。ミゼリコルディアやトードス・オス・サントスの建物だけが1619年まで残された。

 1612年から有馬には殉教があった。長崎の教会の取り壊しが終わった後、直ちに長崎奉行・長谷川左兵衛が有馬に赴き、厳しい弾圧を始めた。とりわけ口之津には殉教者が多かった。大阪冬・夏の陣は長崎の信者にとって一休みとなった。豊臣秀頼の味方になった村山等安とその家族が処刑され、1617年には大村で、1619年には長崎で殉教があった。ここに、すべての殉教について述べることはできないが、主なところを記す。

 1622年、長崎の大殉教があったが、1627年まで長崎の信徒の組織は残っていた。その年、最後のキリシタン乙名・町田と後藤は江戸に追放され、他の信者のリーダーたちはマカオに流された。その後、奉行竹中采女正の圧迫の下に長崎の教会が破壊した。

 クルス町牢(元サン・フランシスコ教会跡)には、宣教師や信者たちが入牢され、そこから殉教地西坂まで引き連れられた。1633年には、特に長崎の教会にとって殉教者が多い年であった。1年後には出島の建造がはじまり、1636年に完成した時、信者と潜伏宣教師の最後の拠り所がなくなってしまった。それまで、ポルトガル人たちの家は秘密の教会の役割を果たしていたが、ポルトガル人が出島に閉じ込められ、キリシタンたちの姿が消えてしまった。ちょうどその頃、島原の乱(1637年~1638年)がおこり、その結果、有馬の教会は全滅した。

 潜伏した信者たちが浦上、西彼杵、平戸などの村々に逃れて信仰を守り続けたが、時には地方への弾圧があって、キリシタンの血が流された。崩れと呼ばれる主な迫害は次の通りである。

 1658年大村の郡崩れ、1790年浦上一番崩れ、1839年浦上二番崩れ、1858年浦上三番崩れ、1867年~1873年浦上四番崩れ。この最後の崩れの時、五島列島や大村領の三ツ山などにも弾圧の手が伸びた。

 長崎教区では至る所に殉教者の血が流れたが、その主な殉教地は、長崎市西坂、雲仙の地獄と大村放虎原であった。その他にも記念碑が建てられ、巡礼地になるいろいろな所がある。

 例えば、平戸の生月(ガスパル様、中江ノ島)、田平焼罪、五島久賀島の牢屋の窄、西彼町小干浦、大村の鈴田牢跡、島原の今村、南有馬の原城などなど。

 このように殉教者の証しを見てきた長崎で、1865年3月17日、出来上がったばかりの大浦天主堂にてキリシタンが発見された。長崎の教会は新しい道を歩み始めた。