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教会の再興

教会の再興・・・・・長崎純心女子短期大学学長 片岡千鶴子

(1989年発行)

 長崎は日本のカトリック教会の『信仰のふるさと』と呼ばれている。日本の各地から長崎県を訪れる人々は、教会が多いこと、しかも山間僻地にすばらしい煉瓦造りの教会堂が建てられていることに驚き、長崎とキリスト教との関係の深さを思うという。事実、長崎市内に22の教会があり、長崎県下では137の教会を数えることができる。

 ここではこれらの長崎の教会の中でも代表的な教会である大浦天主堂と浦上天主堂を取りあげながら、『信仰のふるさと』長崎の歴史の一部分を紹介したい。

1.大浦天主堂の建立2.信徒発見3.浦上四番崩れ4.キリシタン禁制の停止と信仰の証

 大浦天主堂は日本に現存する最古の洋風教会建造物として国宝に指定されている。しかし、大浦天主堂の真の価値は『信徒発見』と呼ばれる、世界宗教史に特筆さるべき出来事がここで起こったことにある。

 日本は17世紀の半ばからオランダと中国の2ケ国とのみ貿易を行い、他の世界の国々に対しては扉を閉ざして来たが、ついに1858年(安政5)、アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・オランダの5ケ国と通商条約を結び、長い鎖国の時代が終わる。条約に従って始めに三つの港が開かれることになった。函館と横浜と長崎である。開港場に限ってではあったが、外国人の日本居留が認められた。また、17世紀の始めから日本人と外国人たるを問わず、日本に住む者にキリシタンの信仰を禁止して来たが、この新しい条約では来日した外国人の信仰を尊重し、居留地内に宗法に従った礼拝堂の建立を許すことが取り決められたのである。

 長崎の開港は翌1859年からであった。オランダ人の居留地としてすでに出島があったが狭いので、新しく大浦海岸の埋立地、常盤、大浦、松ケ枝町が居留地となり、1860年(万延元)、出島もオランダ人以外の外国人に開放され、埋立地の広馬場と梅ケ崎が編入、1863年(文久3)には東山手、南山手まで拡張されて居留地の地域が大体定まった。

 この長崎の居留地に住むようになった外国人の中にフランスのパリ・ミッション会(フランス語は省略)の宣教師が居た。彼らは日本の開国の14年も前から琉球の那覇に渡り、日本語を学びながら日本布教再開の機会を待っていたのである。長崎に最初に来たのはフューレ神父で1863年の1月のことであった。神父は早速教会の敷地を購入し、教会建立に着手する。

 同じ年の夏にはプチジャン神父が、11月にはローカニュ神父が加わった。那覇で日本語と日本キリシタン史の勉強に励んでいたプチジャン神父は、特にキリシタンの子孫の発見を期待して心を燃やしていた。

 1865年(元治元)、ゴシック風の三基の塔のうち中央の高い塔には、金色の大十字架が輝く、美しい教会が完成した。大工棟梁は天草の小山秀(ひいで)、建築中から長崎市民はこの教会を「フランス寺」と呼び、見物にやって来ていた。2月19日、献堂式が行われ、フランス領事をはじめ大勢の居留外国人が出席した。

 長崎に入港中のフランス、ロシア、イギリス、オランダの各国艦船の艦長は正装した12名ずつの部下を率いて出席し、ロシア艦からは軍楽隊も参加した。天主堂内外の荘厳な祝列とミサ聖祭が終了した正午、フランス艦から引いてきた一門の軽砲が、天主堂の建つ高台から21発の祝砲を放つと、時あたかもオランダ国王の誕生日にあたっていたので碇泊中の各艦が奉賀の祝砲を打ち出したのが、丁度これに呼応するかのように重なって、その賑々しさを増し、長崎人を驚かせたという。

 しかし、招待を受けた長崎奉行は参列を断り、おまけに長崎市民のフランス寺見物も当日は厳しく禁止してしまった。日本人に対しては、なおキリシタンは御禁制の宗旨なのであった。

 この大浦天主堂から北に約6km ほど離れた所に浦上があった。実はそこの農民たちが16世紀のキリシタン時代から7世代250年、信仰を伝えてきたキリシタンの子孫たちであった。厳しい弾圧の時代を通して信仰伝承をなし得た理由の一つは、地下組織を持ったことである。組織をつくったのは中野郷に住む孫右衛門で、17世紀の半ばであった。浦上山里村には馬込、里、中野、本原、家野の五郷があったが、馬込を除く四つの郷が皆キリシタンであったので、組織はこの四つの郷を一つに結んで出来ていた。

 先ず、浦上村全体の最高指導者を置いて帳方(惣頭ともいう)と呼び、四つの郷に各々一人ずつ水方(触役)を置き、郷は7~9余りの字に分かれていたので字ごとに聞役を置いたのである。

 帳方は教会の暦(日繰りと呼んだ)を所持し、教理とオラショ(祈り)を伝承する。毎年、毎週の祝日を教会の暦によって決め、その意義と祈るべきオラショを水方に伝えると、水方はそれを聞役に伝え、聞役が一軒一軒の信徒に知らせるというしくみであった。水方は洗礼を授ける役目を合わせ持っていたところから生まれた名称である。

 250年という長い禁教と迫害の時代に、一人の司祭もいなく信仰を守り続けたことは、世界教会史の驚異とされるが、その秘密はこのような指導系統を持つ組織をつくり、洗礼が行われてキリシタンが現実に存在し、教理とオラショと教会暦が伝承されて、信仰生活が実践され続けてきたことにある。

 このように信仰を伝承して来た人々を『潜伏キリシタン』と呼ぶが、彼らの最大の願いは神父の再渡来であった。いつの頃からか『7代たてばローマのパーパから送られたパードレ(神父)がやってくる』という伝承が生まれ、彼らの大きな希望になっていた。

 しかも、真のパードレであるかを見分ける条件として (1)ローマのパーパから派遣されていること。(2)サンタ・マリアを敬うこと。(3)独身であること。が伝えられていた。

 この浦上村の農民たちがフランス寺の見物にやって来た。そして見たのである。サンタ・マリアのご像を!『サンタ・マリアがいらっしゃれば、フランス寺の異人さんはパードレさまに違いない』という確信がキリシタンたちの間に生まれた。1865年3月17日の『信徒発見』と呼ばれる出来事がこうして起こったのである。当日のことは、現在パリ外国宣教会本部に保存されているプチジャン神父の手紙に詳しく報告されているが、その一部を引用してみよう。

 「―― 昨日、12時半ごろ15名ほどの男女うち混ざった一団が、教会の門前に立っていました。ただの好奇心で来た者とは、何やら様子が違っています。私は急いで門をあけ、聖所の方に進んで行きますと見物人も後からついて参りました。
私が跪いてほんの一瞬祈ったと思うころ、40歳か50歳位の年ごろの婦人が一人、私の傍らに近づき、胸に手をあてて申しました。

『ここにおります私たちは皆、あなた様と同じ心でございます』
〔本当ですか? どこの方です、あなた方は?〕
『私たちは、浦上の者です。浦上の者は皆、私たちと同じ心を持っています』
こう答えてその同じ人がすぐに私に、
『サンタ・マリアのご像はどこ?』と尋ねました。
サンタ・マリア! このめでたい御名を耳にして私は少しも疑いません。今私の前にいる人は、日本の昔のキリシタンの子孫に違いない」

 この神父と日本のキリシタンの子孫との出会いを 『信徒発見』 と呼んでいる。

 プチジャン神父と信者の出会いによって250年潜伏してきたキリシタンが、再び司祭の指導を受けるようになってローマの教皇とのつながりが復活し、近代カトリック教会が再建されたのである。それでこの出来事を『キリシタンの復活』とも呼ぶ。

 しかも、浦上だけでなく五島、外海、生月、平戸、天草などの地方にも信仰を伝承している人々が多数いることがわかったのである。信徒たちの喜びは大きく、ひそかに大浦天主堂に出かけて教理の勉強に励み、ミサに与った。

 しかし、日本人に対してはまだ厳しいキリシタン禁制が続いていた。江戸幕府のキリシタン禁制の政策実施の方法の一つに、寺請制度があった。国民は皆、どこかの仏寺の檀徒として所属することが強制されていたのである。そして死者が出た時は、必ずその寺の僧侶を呼んで葬式を行うことが厳しく定められていた。

 浦上の潜伏キリシタンも止むなく聖徳寺の檀徒となり、何時の頃からか、仏式の葬式をしても、お経消しのオラショをすれば許されると考えるようになっていた。一人の司祭もいない厳しい弾圧下に生じた悲しい良心の妥協であった。

 神父の指導を受けるようになると、それが間違いであること、キリシタンでありながら聖徳寺の檀徒であることは許されないことがわかったのである。

 1867年(慶応3)、『信徒発見』後、はじめて浦上に死者が出た。浦上の農民はキリシタンであることを理由に、仏式の葬式を行うことを拒み、聖徳寺と縁を切ることを宣言した署名入りの文書を、村の庄屋に差し出した。これは日本の封建制下の農民の立場から考えると、爆弾的な宣言であった。

 これをきっかけに「浦上四番崩れ」と呼ばれる最後の迫害が起こったのである。

 ところが、その3ケ月後に江戸幕府が倒れて、日本は明治政府という近代国家に変わった。しかし、明治政府の政権を担当した人々の思想は、江戸時代という封建時代の思想と変わらなかった。キリシタン禁制の政策を新政府も引き継ぐことを公布し、早速浦上キリシタンを如何に処分するかが新政府の重大事件として取り扱われたのである。そして、明治天皇出席の会議で、浦上村の農民3,384人を20藩に分けて移してしまい、そこで牢に入れてキリシタン信仰を捨てさせるように説得や拷問を行うことにしたのである。

 このように罪人とされた人を遠い地方へ追放することを「流罪」というが、一村総流罪に処するということは、いまだかつて日本の歴史でもなかったことであった。

 この事件は当初から居留外国人たちの強い批判を受け、大きな外交問題となった。外国公使団が『信仰は国法を超えた人権であって、それを弾圧するのは人道に背く』と抗議すると、日本政府は『キリシタンは国禁の宗教であるから、信徒は犯法の徒。その処罰は内政問題であって外国の干渉は受けない』と主張して受け入れない。その間信徒たちは神道による洗脳教育と重労働、拷問、そしてひどい飢餓に堪え続けていた。

 1871年(明治4)、岩倉具視をはじめ明治政府の中心人物たちで構成された外交使節団がアメリカに向かった。1858年(安政5)の通商条約が日本にとって不平等条約であったので、その改正交渉のためである。ところが浦上四番崩れ事件が原因の一つになって、条約改正交渉は失敗する。国民の信仰や良心の尊厳を無視して迫害する国を、近代国家として認めることが出来ないというのである。

 アメリカを後にヨーロッパに渡った使節団は、イギリスやベルギー、至る所で信仰弾圧の停止を勧告される。

 こうして日本政府は、キリシタン禁制の停止を外交上の立場からも考慮せざるを得なくなり、ついに1873年(明治6)、キリシタン禁制が廃止されることになったのである。江戸幕府の禁止令発布から259年ぶりのことであった。

 流罪の浦上キリシタンたちも許されて故郷に帰った。3,384人中、613人が拷問による殉教を遂げていた。1,900人が信仰を守り通した。しかし、信仰を捨てた1,011人は浦上に帰ってから、ほとんど信仰を取り戻している。この長い流配の時を、浦上の人々は『旅』と呼んだ。

 こうして「愚昧な農民」に過ぎないと思われていた人々の、信仰に殉ずる無抵抗の抵抗が、日本政府の政治に、個人の信仰と良心を尊重するという近代性をもたらすことになった。それはやがて1889年(明治22)の明治憲法において、信教の自由として条文化されることになるのである。

 一方、浦上キリシタンにとってこの迫害は、250年間潜伏して伝承して来た信仰が、真実のものであったことを示す最大の証となった。彼らは神への愛のために喜んで牢獄の苦しみと拷問に耐え、生命を捧げたのである。そして迫害後の彼らの生き方は、さらに迫害の時に示した信仰が真実のものであったことを証したのであった。

 信徒たちが帰った浦上は荒れ果てていた。家はなくなり、畑には雑草が生い茂り、農具も食物もなかった。茶碗のかけらで畑を耕し、虫のついた切り干し芋を食べる苦しさであったが、信仰の自由を得た喜びは何ものにも代えられないものであった。その喜びは、困窮の中における岩永マキらの病人看護や孤児救済の隣人愛の実行などをはじめ、数々の信仰の実践となって、現在まで伝えられている。

 ここでは、浦上天主堂の建立を通して示された彼らの信仰を紹介して、この小稿の結びとしたい。

 迫害後のひどい困窮の中で、信徒たちが先ずやろうとしたことは、「神の家」の建設であった。1876年(明治9)たまたま売りに出された、かつての浦上の庄屋屋敷を買い取った。現在の浦上天主堂の場所である。

 ここは村の中央の丘で位置もよく、250年間信仰の取り締まりの場所であったので、迫害の償いの祈りの場所としても最も適していたのである。しかし、信徒たちの経済力は買い取るだけで精一杯であった。庄屋役宅を仮聖堂としてその後30年間、生活費の一部を献金し続け、労働奉仕を捧げて、骨を刻むような苦労の末、1929年(昭和4)に当時東洋一とも称された壮大な赤煉瓦造りの大聖堂が完成したのである。

 ところが、それから建てた期間よりも短い16年後、浦上の上空で炸裂した原子爆弾は、一瞬のうちにこれを破壊、焼失させ、浦上の信徒の12,000人のうち8,500人の生命を奪い、全村ことごとく焼野原に変えてしまった。

 この原子野の廃墟の中から生活再建に立ち上がった生き残りの信徒たちが、先ずやったことはやはり「神の家」の再建であった。信徒の大工たちを中心に、信徒が一丸となって労働奉仕をして、原爆の翌年11月に木造仮聖堂が落成したのである。原子野に再建された最初の公共建造物で、この聖堂建立の熱意は、信者でない長崎の原爆罹災者たちをも勇気づけたのであった。

 しかし、信徒たちにとってこれはあくまで仮聖堂であった。「神の家」に相応しい本聖堂建設の計画がつづいて立てられ、14年後の1959年(昭和34)、鉄骨コンクリート造りの本聖堂を再建し、更に20年後の1980年(昭和55年)、教皇ヨハネ・パウロ二世の来崎を機に、今までの不足を補って改装し、現在の姿を造り上げたのであった。

 このような「神の家」に対する熱心は、先祖たちが迫害の中で伝えて来た信仰の遺産の一つである。長崎の教会が、訪れる人々の心を打つ秘密は、ここにあると思う。浦上天主堂のみならず、五島や平戸や各地の教会は、先祖の信仰の遺産の伝承の証として、信徒たちの手で建てられた、信徒たちの「神の家」なのである。そしてこの家で信徒たちは神への賛美と感謝を捧げ、秘跡に与かり、神のみことばに強められて、世界に神の恵みを告げ知らせる者になろうと努力している。『神の幕屋は人と共にあり、神は人と共に住み、人は神の民となる』(黙21・3)という聖書のみことばを、真実に生きる者となるために。