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年頭教書

2022年 年頭教書  ともに歩む教会のために

大司教 ヨセフ 髙見 三明

 

 年の始めにあたり、皆様に新年のごあいさつを申し上げます。昨年も公私ともにお祈りとご支援をいただき、まことにありがとうございました。その一方で、心ならずも皆様にご心配とご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。今年は皆様とともに新たな出発ができるよう祈りつつ努めてまいりたいと思います。中村倫明司教様共々、どうぞよろしくお願いいたします。

 新型コロナウイルス感染問題は、生きる上ですべての人がかかわり合っているということを気づかせただけでなく、人間の醜い内面をあぶりだし、分断を生みました。それとは別に教会内外で差別、虐待、国の覇権争い、軍備競争、経済格差、難民、貧困、情報技術革新の功罪などさまざまな人間の問題が起きています。また深刻な地球環境問題も国際社会に重くのしかかっています。このような中で、教皇様は、教会は今何をどうすればよいのかをともに考え、聴き合い、ともに行動していかなければならないと強く呼びかけておられます。

 

1.「ともに歩む教会のため ― 交わり、参加、そして宣教」

 昨年の6月、シノドス(世界代表司教会議)事務局長から全司教宛ての書簡がメール配信されました。それによると、教皇様は、2023年10月にバチカンで開催される第16回シノドス総会を全教会あげて準備したいと望んでおられ、そのため全世界の各教区から歩みを始め、各地の教会と全教会がともに成長したいと考えておられるとのことです。このお考えを、すでに2018年10月、シノドス設立50周年の演説の中で次のように述べておられます。わたしたちが生きている世界、矛盾に満ちたものであっても愛し奉仕するよう招かれている世界において、教会はその使命のすべての分野における協力を強化していかなければなりません。主が求めておられることは、「信徒と司牧者とローマの司教がともに歩むこと」です。ここから、次回シノドスのテーマ「ともに歩む教会のため―交わり、参加、そして宣教」が考案されました。

 そこで「ともに歩む」ということについて少し考えてみたいと思います。

 

2.だれとともに?

 聖書は、まず「神がともにおられる」という事実を強調しています。神は、旧約のヨセフ、モーセ、ダビデや預言者たち、そしてイスラエルの民と必ず、常に「ともにおられました」。「ともにおられる」ということは、「ともに歩まれる」ということと同じ意味を持っています。神は、イスラエルの民とともに歩まれました(申命記31・6)。

 最後に神は、マリアとともにおられ、その結果、御子がインマヌエル、すなわち人となってわたしたちとともにおられる方となられました(マタイ1・23)。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1・14)のです。そして復活したイエスは、世の終わりまで、いつもわたしたちとともにおられるのです(マタイ28・20)。

 このようにわたしたちとともに歩んでくださる神に対して、わたしたちも「神とともに」歩まなければならないでしょう。神とともに歩むということは、世界のすべての人、特に病む人、困窮している人、弱い立場におかれている人々、またすべての造られたものとともに歩むということを意味します。

 

3.「ともに」とは?

 神が人々と「ともにおられる」ということは、単にそばにいるだけではなく、彼らが生きていく上で必要な食べ物や着る物を与えて、何一つ不足しないようにし、出遭う困難を克服させ、危険から守り、救い出し、悪を善に変え、成功させ、ご自分が計画しておられる目的を達成させてくださるということです。

 マリアには救い主の母となる恵みを与え、御子とヨセフとともに生涯を通して支えてくださいました。そして御父はイエスとともに、イエスは御父とともに、そしてイエスはあらゆる人々とともにおられました。

 「歩む」ということは、生きる、生活するということですから、神が「ともに歩む」ということは、イスラエルの民と生活の苦楽をともにされたということです。実際、民の苦難をご自分の苦難とし、彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを悪から解放し、父が子を背負うように、常に彼らを背負ってくださいました(申命記1・31、イザヤ63・9)。最後に神の子イエスは、わたしたちの中の一人となってわたしたちの病を担い、罪を負い、その打ち傷と死によってわたしたちを永遠の死から救ってくださったのです(イザヤ53・3-12、ヘブライ9・28)。

 わたしたちが「神とともに歩む」とは、神に従い(創世記17・1)、その導きに従って(同24・40)、平和と正しさのうちに(マラキ2・6)、忠実に、憐れみ深い心をもって神のみ前で(列王記上3・6)、神が示された生き方をする(申命記5・33)、ということです。預言者ミカは、神が求めておられることは「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」(ミカ6・8)だと教えています。イエスの弟子たちは、宣教の旅から最後の晩餐までイエスと一緒でした(ルカ8・1、22・14)。教会もイエスとともに歩むはずです。

 

4.ともに歩む教会

 「ともに歩む教会」は、復活したイエスがエマオの弟子たちと一緒に歩きながら、彼らに耳を傾けられたように、まず教会のすべての人に耳を傾ける、つまり互いの考えや生き方や意見をよく聴き合うことから始まります。

 また、各教区の「交わりの組織」と呼ばれる「教区シノドス」「顧問会」「司祭評議会」、各「評議会」などは傾聴と分かち合いの場であり、参加と交わりの場として重要です。ともに歩まれる神と歩調を合わせて、家族、友人、同僚や地球環境とも、ともに生きていきたいものです。「ともに」自体が交わりと参加、そして宣教なのです。