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2月5日 日本二十六聖人殉教記念ミサ

 2月5日(日)14時から西坂公園で、中村倫明大司教の主司式、髙見三明名誉大司教と約40人の司祭団の共同司式のもと、日本二十六聖人殉教記念ミサが行われた。「西坂の丘」を目指し各地から集まった約1200人が、殉教者を思い、共に祈りをささげた。

 長崎大司教区主催、長崎南地区評議会担当で行われるこのミサは、新型コロナウイルス感染防止のため2年続けて中止となり、今年は2020年以来3年ぶりの実施となった。また、教区主催のミサは2007年から2月の第一日曜日に行われているが、今年は日本二十六聖人殉教者の祝日である2月5日と主日とが重なり、参加者の一人は「3年ぶりのミサで、それに記念日その日のミサでもあって、いっそう喜びを感じた」と話していた。

※2月5日当日にライブ配信された映像はこちらからご覧いただくことができます。  https://youtu.be/5ZZCj7RZjTI


2023年2月5日

日本二十六聖人殉教記念ミサ 説教

大司教 中村 倫明

 昨年の9月10日、日本205福者殉教者の記念日に、わたしたちはここ西坂に集まりました。ここで、ちょうど400年前に殉教した55人を思い起こして、元和の大殉教記念祭をここから始めました。ここでの黙想の後、殉教者55人に見立てた竹を掲げ、ロザリオを唱えながら行列し、中町教会で記念ミサをささげました。

 あの記念ミサの中で、わたしは一つの問い掛けを行いました。覚えておられますか?
あのミサに参加できなかった方もおられると思います。人数制限もありました。あらためて質問させてください。
質問は、「日本人で一番初めに司祭になった人はどなたでしょうか」という質問でした。「日本人最初の司祭は誰でしょうか。」この答えも覚えておられるでしょうか。

 日本人最初の司祭は、あの時の元和の大殉教者の55人の中におられました。
福者セバスチャン木村神父様です。イエズス会の司祭でした。このセバスチャン木村神父様が司祭となった経緯については、話が長くなりますので、あの時の話は繰り返しません。

 ただ、本日ご一緒に考えたいのは、いまわたしたちがお祝いしているこの26聖人の中に、どうして日本人の神父様がいないのかということです。

 外国人(スペイン人)のお二人の神父様はおられます。ペトロ・バプチスタ神父様とマルティノ・デ・ラ・アセンシオン神父様です。その他の外国人は、フランシスコ会の修道士さんたちです。
日本人には、イエズス会の修道士はいましたが、司祭は一人もいません。
有名なパウロ三木も修道士でした。修道士が悪いというわけではありませんが、やっぱり疑問が残るんです。どうして日本人の司祭はいないのか。
26聖人の殉教は、1597年のこと。元和の大殉教のたった25年前のことです。しかも、フランシスコ・ザビエル神父様が日本にキリスト教を伝えてからは48年。ザビエル神父様が、長崎平戸においでになってからでも、47年は経っています。いくら司祭養成が大変だとはいえ、一人くらい司祭が誕生していてもいいのではないかと思うんです。

 もっと言えば、ザビエル神父様が日本においでになって、お考えになられた一つの大きなことは、日本人の司祭を育てるということでした。そのため、ザビエル神父様は最初の司祭候補者を2人、ヨーロッパに送ったんです。しかし、一人は渡航中に、もう一人はポルトガルで勉強中に、司祭になることなく亡くなります。
確かに、ザビエル神父様が日本を去ってから、その後の責任司祭の中には、「日本人(の新信者)が司祭になるにはまだ未熟だ」ということで、その養成がなされなかったこともあります。しかし、ザビエル神父様来日から30年後(1579年)、日本に派遣されたアレキサンドロ・ヴァリニャーノ神父様によって、日本での日本人のための司祭養成を考えて、日本にも島原の有馬、滋賀の安土にセミナリヨが開設されます。

 その一つ、島原有馬のセミナリヨの最初の生徒の一人であったのが、日本人最初の司祭となった、当時のセバスチャン木村神学生でした。その後時代は、秀吉からのバテレン追放令から始まった様々な取り締まりによって、日本での司祭養成は難しくなり、マカオで神学を学んでいくことになります。26聖人殉教の時、セバスチャン木村神学生はマカオにいました。

 実は、26聖人の一人、パウロ三木は安土のセミナリヨに入学しました。しかし、パウロ三木は、日本に留まり、修道士として宣教活動を行い、この日に殉教していきます。

 わたしは思うんです。
パウロ三木も、本当は司祭になりたかったんじゃないか。

 26聖人のうちには、3人の少年もいました。
わたしが、今の時代に、この3人を見つけたら、「神学校へ行かんね」と必ず声を掛けていきます。そんな少年たちです。
まず、ルドビコ茨木少年、当時12歳。
ここに12歳の人、おられたら、手を上げてください。いませんか。

 ルドビコ少年は、長崎奉行が「お前はまだ幼い、生き延びれば、おもしろおかしく暮らすこともかなうのじゃ、どうじゃ、キリシタンを捨てぬか。もし信仰を捨てれば、わたしの家に引き取って武士にしてあげるが、どうじゃ」と言った時、「たちまち滅びる短いこの世の命と、永遠の命とを取り換えることはできません。」ときっぱり断りました。
ルドビコ少年は、武士にならなくても、司祭にはなりたかったんじゃないでしょうか。

 それからアントニオ少年、13歳。13歳の人、おられますか。
アントニオ少年は、処刑場に来ていたお父さんから言われます「息子よ、おまえはまだ若い、大きくなってから殉教しても遅くないのではないか」そう言われた時、「神さまに命をささげるのに、年をとっているかどうかは問題ではありません。クリスマスの時、生まれてまもない罪のない幼児たちもキリストさまのために殺されたではありませんか」そう答えたそうです。
彼こそ、今の時代なら答えそうです。「神学校に入るためには、まだ若いとかいうことは問題ではありません。わたしはすぐにでも神学校に入りたい。」

 それに、お父さんと一緒に捕らえられたトマス小崎少年、14歳でした。
14歳の人、おられるでしょう、手を上げて。いませんか? おられたら、神学校へお願いします。
トマス小崎少年は、京都から長崎への道の途中、広島三原でお母さんに手紙を書きました。皆さまよくご存知。
「母上様、お父様のことも、わたしのことも心配なさいませぬよう。わたしどもは天国でお母さまをお待ちしています。たとえ神父様がおられなくても、心の底から罪を悔い、イエスさまのお恵みをお願いすれば救われます。いかに貧しくなろうとも、ただ天国を失わぬよう心掛けてください。また人からどんなに言われようと、忍耐と愛とをもって耐え忍んでいただきとうございます。何よりも弟マンショとフィリッポとが信仰を失わぬようお導きなさるようお願いいたします。わたしは弟たちのめにデウス様にお祈りいたします。そしてデウス様がお母さまをお守りくださいますように。」

司祭が語るようなことを手紙につづりました。
トマス小崎少年も司祭になってもおかしくありませんでした。
わたしは、昨年の元和の大殉教祭の時、お願いしました。
「わたしたちの教区から、それぞれの小教区から司祭や修道者を出しましょう」

 今年のカトリック教報新年号でもお願いしました。
「どうぞ声を掛けてください。召命のためにも声を掛けてください。」

 皆さん、嬉しいことがあります。
この春、小神学校に中学一年生としてお一人入学することになりました。
皆さん、ありがとうございます。声を掛けてくださったからです。
これからもお願いいたします。何よりも、神さまが声を掛けてくださっているんです。

 あの時もそうでした。神さまは、聖パウロ三木修道士を通して、わたしたちに声を掛けてくださいました。

 「人のまさに死なんとする、その言やよしと申します。今死に臨んで、わたくしが真のことを語るのを信じて頂けると思います。皆さまが幸福になりますようにわたくしは祈ります。どうかキリスト様にお助けをお願いになってください。キリシタンの道の他に救いの道はないのです。キリスト様の教えに従って、わたくしは、太閤様をはじめこの処刑に携わった人々をゆるします。少しも恨みは思いません。ただ太閤様をはじめ、この国の人すべてが一日も早くキリシタンになることを願っています。どうか、わたくしの流す血が、皆さまの上に豊かな実りをもたらす慈雨(じう)となりますように。」

 神さまの声掛け、殉教者たちの声掛けを耳にし、その流された御血、与えられた命に生かされて、わたしたちも人々のしあわせのために、声を掛け、命を使っていけますように。
また司祭や修道者となって、「わたしが神さまの声になろう、わたしも自分をささげていこう」という人たちが誕生するように、声を掛けお祈りください。