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11月20日 パリウム授与式(浦上教会ミサ)

 

 王であるキリストの祭日、11月20日(日)9時30分から行われた浦上教会でのミサの中で、駐日ローマ教皇庁大使レオ・ボッカルディ大司教から中村倫明大司教へ「パリウム」が授与された。

 パリウムとは、聖アグネスの日(1月21日)に祝福された羊の毛で作られた円形の帯で、6カ所に黒い十字が刺しゅうされている。大司教の任務と権能、また教皇との親密な一致と交わりを象徴する。日本では東京、大阪、長崎の大司教に与えられる。

 ミサの初めに教皇大使はパリウムを授与することについて日本語で語られ、教皇のため、全教会のため、パリウムを与えられる大司教のためにこのミサの中で祈るようにと招かれた。そして、パリウム授与の後ミサが続き、ミサの終わりには祝賀式が行われた。長崎教区信徒の代表者から、また、教皇大使からも中村大司教へお祝いの言葉が伝えられ、聖堂内は感謝と喜びの温かい拍手で満たされた。

 写真は、ミサの初めに司式を務める教皇大使ボッカルディ大司教、教皇大使から中村大司教がパリウムを授与され肩に掛けられる様子、説教をする中村大司教、続く4枚はミサのときの様子。


2022年11月20日 王であるキリスト(ルカ 23・35-43)

パリウム授与式ミサ 説教

大司教 中村 倫明

 ♪ あれは3年前 ♪〔歌謡曲のワンフレーズ〕
フランシスコ教皇様がおいでになった日の長崎は雨の中でした。あの日、教皇様は、まず爆心地公園にて原爆の犠牲になった方々に花をお捧げになった後、「核兵器や軍備拡張競争から解放される平和の実現のために長崎の証し人こそ声をあげよう」とメッセージをくださり、その後、巡礼者として西坂公園を訪れ、「殉教者の愛が、記念館に丁重に納められ尊ばれる過去の手柄の輝かしい遺物にとどまるのではなく、燃える炎となって、福音宣教の熱い思いを刷新し、絶えることなく燃え立たせてくれますように」と祈ってくださいました。

 その日の最後は、長崎県営野球場でのミサでした。ミサの直前に、それまで降り続いていた雨は止みました。その日は日曜日、そしてその日は、今日と同じ、王であるキリストの祭日でした。今日のこの祭服は、あの時、教皇様と同じステージでともにミサをささげた時の祭服です。

 くしくも、王たるキリストのこの日、教皇様の代理として、レオ・ボッカルディ大使が長崎においでになり、この拙いわたしにパリウムを授与していただけたなんて光栄の至りです。
〔イタリア語でお礼の言葉を述べる〕
大使と教皇様に感謝を込めて、拍手をお願いいたします。

 パリウムという言葉は、ほとんど耳にすることはありません。ですから、ある人は、フランスのパリの何かですか? とか、ある人なんか、パリウムを受けると聞いて「具合でも悪いんですか」とおっしゃいました。胃の検査の「バリウム」と勘違いしているんです。またある人は、この日に行われるパリウム授与式をパリウム戴冠式とおっしゃった人もおられました。それは、今日は王たるキリストのお祝い日ですから、王冠のようなものだとおっしゃるんです。
果たしてどうなのでしょうか。今日は、わたしたちの王さまとはどういうお方なのか、その王国とはどういうところなのか黙想してみたいと思います。

 わたしはある教会で子どもたちに「天国のイメージを絵で表してください」とお願いしました。すると、何人もの子どもたちが沢山の花が咲いている風景を描いたり、美味しい食べ物を描いたり、温泉リゾート地のような景色の絵もありました。
いろんな絵がありましたので、もう少し絞るために、さらに質問しました。
「天国にはいろいろなものがあるかもしれませんが、もしそれを『一つだけにしなさい』と言われたら何を天国におきますか? 天国にはこれが絶対に必要だというものを描いてください」
すると、一番多かったのは、天使です。
それから、亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんを描いた子ども。天国には家族や大好きな人がいないと天国にはならないのです。ある人はテレビを描いていました。天国にはテレビが絶対必要。テレビなしには生きていけないんです。

 それらを見ると、あることが分かります。それは「天国は、どういう所ですか?」これは、言葉を換えれば「このわたしが行きたい所はどんな所ですか?」ということになっているんです。そして、そこには、自分にとって、大切なものや大切な人が存在していることが見えてくるんです。

 では、本当の天国とはどういうところでしょうか。
この答えは、わたしも行ったことがないので、分かりません。でも、行ったことのないわたしでも確実に言えることが一つあります。それは、天国という所は、「神さまがおられる所だ」ということです。神さまがそこにいないと、天国、神の国ではありません。

 子どもたちの中にも、そのことがちゃんと分かっている子もいました。「天国にこれは絶対に必要だと思うものを一つだけ描きなさい」そう言った時、ある子は、十字架しか描かなかった。また、ある人はイエスさまを描いた。

 神さまがおられる所、そこが天国です。ですから、きれいな花がなくても、おいしい食べ物がなくても、もしかして、天使がいなくても、神さまがおられるならば、そこが天国です。
でも、だからと言って、天国は、神さまだけがおられても、そこは、天国にはなりません。そのことがよく分かるためには、神さまにこそ、わたしたちが同じ質問をすることです。そして、その時、「天国とはどういう所ですか?」ということと「どういう所にあなたは行きたいですか 住みたいですか?」ということとが同じならば、その答えによって、神さまにとっての大切なものも明らかになってくるんです。

 では、神さまにとっての大切なものとは一体何か? 神さまにとって必要なものとは何なのか? それは、このわたしたちです。神さまは、このわたしたちを必要としてくださっています。このわたしたちがいないと天国にならないんです。

 今日の福音には、イエスさまの十字架の両脇に、二人の犯罪人が登場します。
一人は、イエスさまをののしります。この人にとっての救いとは、イエスさまと一緒にいることではありません。十字架から降りるんだったら一緒でもよかったでしょうが、でも十字架に一緒に留まることはダメでした。彼にとっては十字架から逃れることができればそれでよかったんです。それが、彼の思う救いでした。

 でも、もう一人の犯罪人は、イエスさまとともにいることを、たとえ十字架の上であっても、受け入れていきます。たとえ、苦しみの中にあっても、神さまと一緒、そこが天国であり、救いだからです。
でも、実際の救いは、イエスさまの方こそが、たとえ十字架の上であろうが、その犯罪人とともにいることを望まれた、そこに救いがあるんです。

 そして、それは、こんな罪深いこのわたしとも、神さまはいてくださるということの証しです。神さまにとっては、こんなわたしでも「大切な存在だよ」、こんなわたしにも「大好きだよ」と言ってくださる。ここに本当の救いがあるんです。

 犯罪人の一人は、このことがよく分かっていました。だから、彼は、こう言うんです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
だって、わたしたちはどんな人だって「このわたしはどんなことがあっても、どんなことになろうとも、イエスさま、わたしはあなたのことを忘れません」なんてとてもとても言えません。
「あなたのこと忘れません」そう言えるのは、神さまだけです。

 信仰というのは、わたしたちが神さまを忘れないかどうかだけではありません。本当の信仰は、「神さまは、このわたしのことを決して忘れない。どんなことがあっても、神さまはこのわたしを大切にしてくださる。愛してくださる。だからどんなことがあっても大丈夫」このことを受け入れていくこと、これが信仰です。

 わたしたちは、今日の犯罪人の叫びをともにしたい。「イエスさま、わたしを思い出してください。なぜなら、もしかして、わたしは、イエスさまのこと忘れることがあるかもしれません。でも、あなたは、わたしのことをちゃんと思い出してくださいます。あなたは、わたしのことを忘れるはずはありません。あなたは、いつもこのわたしとともにいてくださいます。だから、いつも感謝です」これが、わたしたちの信仰宣言です。
「主はともにいてくださいます。主は、わたしたちのことを忘れることがありません。そこに救いがある」この世での証しが、何よりも、このミサです。

 今日頂いたパリウムは、子羊の毛から作られたものです。いろんな意味があるようですが、今のわたしは、福音書で語られる「見失った一匹の羊を肩に担いでいるよき牧者の姿」を思います。

 ある人はおっしゃった「パリウム授与式はパリウム戴冠式だ」と。
わたしは思います、王であるキリストが身に着け誇りに思う栄光に輝く王冠とは、頭に被っていくものではなくて、喜んで肩に、まるで肩車のように大切に担っていく、このわたしたちではないでしょうか。
感謝しながら、このわたしも、人々に「わたしたちは愛されているよ。神さまはともにいるよ」そう伝えていく牧者となるように、教皇様がおっしゃる「羊の匂いのする牧者」となれるように祈ります。

 またこの長崎大司教区と長崎教会管区のすべての司牧者たちとすべての信徒の皆さんが、これからも、神さまから愛されていることに自信と誇りをもって、その愛を人々に忠実に伝え、ともに歩んでいく宣教者であることの、さらなる恵みを、わたしたちの王であり、まことの牧者であるイエスさまに、このミサの中で願いましょう。