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8月9日 平和祈願祭

  

 原爆投下から77年の今年、8月9日(火)18時から浦上教会で平和祈願祭が行われた。今回は、被爆77年を記念してまとめられたDVDの上映、子どもたちによる紙芝居の朗読、平和祈願ミサ、ロザリオの祈り、また、高校生平和大使の皆さんによる活動報告があった。

 新型コロナウイルスによる影響で長崎教区主催としての平和祈願祭が中止となって3年目。一昨年と昨年は浦上小教区主催、今年は長崎中地区主催で行われた。祈願祭の様子はインターネットを通じてライブ配信された(途中からですが、こちらから視聴できます → https://youtu.be/R0-IPaO_eqE )。

 写真は平和祈願ミサ。(1)被爆マリア像(2)説教をする中村倫明大司教、写真の右側に写っているのは被爆十字架(3)閉祭のとき


2022年8月9日 平和祈願ミサ 説教 (ルカ 12・49-53)

大司教 中村 倫明

 長崎に原爆が投下されて77年になります。ここ数年、この日のミサは、新型コロナウイルス感染症拡大防止のために教区主催でのミサがなくなり、今回は長崎中地区の主催となりました。さらには、今年こそは絶対にたいまつ行列をしたい、大々的に行えなくても「浦上教会の周りだけでも行列を!」と浦上の主任神父様も考えておられましたが、これこそ涙をのんで中止せざるを得なくなってしまいました。

 そういう皆さま方の思いをくみ取って、今日は、ここに、たいまつを持ってきました。このたいまつを見ながら、平和について黙想できればと思います。

 

 たいまつと言えば、いろんなことに使われますが、わたしはすぐに戦(いくさ)の時のたいまつを思います。戦いの火蓋が切られるとなると、人々は陣地にたいまつをともし、またたいまつを手に、戦いに挑んでいく姿がドラマの映像で流れたりします。燃えるたいまつのメラメラと立ちのぼる炎や、風にあおられてさらに荒々しくなる火炎を眺めると、いろんなものをなめ尽くし滅びし尽くしていくような恐怖を覚えることもあります。

 今日の福音の箇所についてもそうかもしれません。今日のイエスさまは「おや?これはどういうこと?」と思うようなことをおっしゃるんです。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」さらにはこうおっしゃる「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」

 今日わたしたちは、平和を祈るためにやってきました。それに何よりもわたしたちは、イエスさまこそ、この世の平和のためにやって来られた救い主だと信じます。

 ところが、そのイエスさまがおっしゃったことは「わたしは平和ではなく分裂、対立、戦いのためにやって来たんだ」そして、その象徴でもある「火、炎が燃え上がっていたら」とおっしゃるんです。わたしたちが平和祈願祭で手にしていくたいまつは、ときの声を上げて、戦いを挑むためのしるしなんでしょうか。もしそうだったら、それはもう平和ではなく戦争です。

 イエスさまは、確かに、戦いのためではなく、平和のために、愛のために、ゆるしのためにおいでになりました。しかし考えてみると、「平和」とか「愛する」とか「ゆるす」とかいうのは、一種の戦いであるかもしれません。なぜなら、平和を実現していくことは大変難しいことなのです。実際に、平和実現のためには、黙っているのではなく戦っていく必要があります。でもその戦いは、武器をもって敵国と争うという戦いではなく、この自分を正当化し自分のプライドを守り、自分の力を保持するために、相手を責め相手を滅ぼし、相手を攻撃していくという今のわたしたちの在り方と戦っていくというものです。第二朗読でヤコブが示していたように(ヤコブ3・13ー18)、ねたみや利己心のような下からのものと戦い、偏見や偽善的でない上からのものに従っていくところに平和が実現します。

 他人を愛すること、他人をゆるすことにも戦いがあります。誰でも自分が一番かわいいのです。他人を愛し受け入れるためには、自分を優先させ、自分のことだけを考え動いていくという自分のエゴと日々戦っていかなければなりません。

 今日イエスさまがおっしゃる「地上に火を投じるためにやってきた」とは、77年前、広島や長崎に投じられ、多くの市民の命を奪った原爆による、本日のミサ前のプレゼンテーションのDVDで語られたように、「まるでもう一つの太陽が落っこちてきた」ような放射能の光のようなことではありません。

 あの時、わたしたちが本当に戦わなければならなかったのは、多くの人々の命を取り返しのつかない在り方で、瞬時にして奪い、簡単に武力で決着をつけ、簡単に勝利を得るために、核兵器を使っていこうとする動きや心に対してでした。その動きを、一人ひとりの人間が、そして国自体もそれぞれが行うということではなかったでしょうか。わたしたちこの日本も同じでした。「もう戦争はやめよう」とそれぞれが声を上げ戦わなければならなかったのです。イエスさまが掲げる火とは、平和のための本当の闘いのための光のことです。

 旧約時代においてもそうでした。第一朗読において(出エジプト3・1-10)、ご自身のことをモーセに示された神さまは「柴の木は燃えているのに、その柴は滅ぼされることのない炎」の在り方でご出現になりました。またその時に語られたことは、圧迫により苦しんでいるイスラエルの民を、またそれからも罪によって苦しむであろう民を「滅ぼす」のではなく「救う」ということでした。そして、実際に、答唱詩編でもありました(詩編78・1-4、12ー15)。神さまは燃える炎として、民の旅路を守ってくださったのです。

 この神さまの光は、新約の時代に入って、もっとはっきりいたします。イエスさまはおっしゃいます。「わたしは世の光である」(ヨハネ8・12)「わたしは光として世に来た」(ヨハネ12・46)罪と暗闇の中で、苦しみ悩んでいるこのわたしたちの歩みを照らし、活路を与えるためのまことの光、それがイエスさまです。それだけではありません。そのまことの光に従って歩もうとするわたしたちにもおっしゃってくださいました。「あなたがたは世の光である」(マタイ5・14)「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(マタイ5・16)

 わたしたちの光を、人を滅ぼす光ではなく、人々を救うまことの光として輝かせるためには、イエスさまは「親子の対立、家族の分裂もある」とおっしゃいますが、さらには、別の箇所で、「自分の命さえ憎みなさい」(ヨハネ12・25)「自分を捨てなさい」(マタイ16・24)とまでおっしゃるんです。

 

 まずは自分との戦いがあるんです。ならばまた、今日の福音でもあるように、親しい人や愛する者たちとの決して馴れ合いに終わってはいけない戦いもあるはずです。そのために、イエスさまがおっしゃりたいのは、よりよく戦うためには、まずイエスさまを受け入れるということ、まことの光なるイエスさまをまず見つめるということです。まず(わたしたちが)イエスさまを救い主として受け入れることからはじめていく時、まことの光が本当に示したいこと、わたしたちが愛し合うということ、わたしたちがゆるし合うということ、わたしたちが本当の神さまの家族になれるということの歩みが始まります。

 ご存知のように、全聖書の始まりは「光あれ」から始まります。けっして滅びではなく、人々の救いであるまことの光を見つめていきましょう。わたしたちを救うために、一番ご自分の中で戦っておられるのはイエスさまです。裁き主としての神でありながら、そのご自分を捨て、ご自分を無にして、わたしたちをゆるすということを貫き通され、そのためにはご自分の命さえわたしたちに差し出していかれました(フィリピ2・6ー7)。これこそがまことの命の輝きです。

 あらためてわたしたちは、祭壇に輝くキリストの光であるろうそくを見つめます。何よりもこの祭壇で、今日もわたしたちのためにご自分の命を燃やすイエスさま、輝く命の光であるイエスさまを眺めます。このわたしたちも、他人の命を奪う在り方での命の使い方ではなく、人々の救いと平和のために自分を差し出していく命の輝やかせ方をすることができるように、そして、これからもわたしたちが、正しいたいまつの掲げ方をしていくことができるように恵みを願っていきましょう。