コンテンツにスキップするには Enter キーを押してください

2月26日更新 『カトリック教報』2021年3月号より記事紹介 「四旬節の黙想…いたわりの文化」

『カトリック教報』2021年3月号より

(全ページはこちらから閲覧できます。→ https://www.nagasaki.catholic.jp/cms/newspaper/kyouhou/202103.pdf


四旬節の黙想… いたわりの文化

 新型コロナウイルスの脅威にさらされ、1年が過ぎた。社会においても教会においても私たちの日常は大きく変わり、目まぐるしい変化は時に心身が対応できないほどの影響を及ぼしてきた。同時に、自身や他者の健康に配慮したり、食べ物にも事欠く状況にある人や、医療・福祉の現場に従事する人のことを考えたりし、命の尊さ、人との交わりの大切さを深く思うという変化ももたらしたといえよう。例年とは異なる雰囲気の四旬節を迎えている中、聖書や教皇の言葉をよく読み、黙想する時間となることを願って、広報委員会からの一文をここに寄せたい。

 

1.無関心を乗り越えて

 「過ぎ去りし年に、人類の歩みに刻み込まれたこれらの出来事は、われわれにお互いをいたわり合うこと、そして被造物をもいたわることの大切さを教えています…」(2021年世界平和の日メッセージ1)

 世界中が新型コロナウイルスの驚異的な感染拡大に脅かされる中、人びとは不安や恐れにとらわれながらも、これまでの関わり合いかたとは異なる新しい形を模索する動きを見せている。われわれはそれまでの当たり前が制限されている状況で、たとえば人と集まる機会の尊さをあらためて痛感し、新しい形を模索しながら互いに連絡を取り合うことをやめない。いわば、全人類は共通の課題を前にして、その克服のためにそれぞれが協力し合う必要性があることをあらためて学びつつあるのである。ことばを換えるならば、われわれが新型ウイルスに対して抱く恐怖や不安は、互いに無関心であり続けることからの脱却を迫ったともいえるだろう。

 実際、われわれはもはや無関心ではいられなくなっている。他者に対してこれまで以上に敏感になっている。どこでクラスターが発生したとか、新規感染者数が何人だったとか、県外ナンバーの車が走っていることなどにも敏感に反応し、眉をひそめる。確かに、これらは身を守るために必要な反応だとはいえ、時に過剰すぎる反応とも思えるもの、形を変えて批判や悪意となってしまうものを目の当たりにすると、関わり合う必要のない日常を平穏と呼んでいたかつてのことを懐かしく感じたりもしてしまうのである。心が悪意に蝕まれてしまうことこそ恐れるべきであるのに…。

 しかしながら、われわれは過去を取り戻すことはできない、できるのはどのような未来を目指すのか、その選択だけである。たとえば、コロナ禍を通してわれわれが身につけつつある「他者に対して無関心ではいられない体質」を今後どのように活かしていくのか、これもまた迫られている選択である。このような文脈で、パパ様は今年の初めに「いたわりの文化」の構築を提案しているのである。

 

2.名もなき主役たち

 「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」(マタイ4章23~25節)

 これはイエスが福音宣教を始めた頃の様子を淡々と描いた記事である。ここには目を引くような出来事も、あるいは心を打つような教えも、特に見当たらない。そんな単なる幕間の語りとも受けとれるような記事の中にあって、さらに目立つことのない登場人物たちのことをここで少し取り上げてみたい。ギリシャ語原文においては、主語さえも省略されてしまい、προσήνεγκαν(プロセーネンカン)という動詞だけで表現されている人びと、すなわち病気の人たちをイエスの「もとへと連れて来た」名もなき人びとの果たした役割の大切さを、今あらためて噛みしめることができると思う。想像力を働かせれば当然のことだとあらためて感じるのだが、病に苦しむ人の中には自らの力だけではイエスのもとにたどり着けない人たちも多くいたわけである。彼らを助け導いた人たち、病に苦しむ人びととそれを癒やすイエスとの、いわば「橋渡しとなった人びと」とは、具体的にはいったいどのような姿だったのだろうか。そこには病の子どもを抱えた親の姿があり、年老いた親の手を引く青年の姿があり、よろめく者の体を脇から支えながら一緒に歩む人や、歩く気力を失ってしまった者を励ます人もいただろう。自らがこうむる苦労もいとわず、みながただ身近で苦しむ者たちを思いやる気持ちに突き動かされてイエスのもとに集まったのだろう。

 ただし、福音記者は行為の主体が「誰であるか」には関心を持たない、ただ「何をしたか」を描こうとしている。実際、殉教者ユスティノスの証しによれば、キリスト者の本質はその名称にあるのではなく、そのわざにあるのである。言い換えるならば、主語は誰でもよいのだ。苦しむ人をいたわるのは家族であり隣人であり、あるいは異邦人であり、いやむしろ「あなた」であり「わたし」であり、こうしてイエスのもとでは、みなが互いのことを優しくいたわる主役となるのである。

 

3.“Ite ad Ioseph” ――ヨセフのもとへ行くがよい

 これらの人びとは、パパ様自身が聖ヨセフという人物像を通して語られる普段の目立たない善良な人たちの姿とも重なる。

 「みなが聖ヨセフのうちに、人目につかず通り過ぎるような人、普段は控え目で目立たずにいる人でありながら、困難の時には仲介者となり、支えとなり、導きとなってくれる人を見いだすことができます」 (使徒的書簡『父の心で』序文)

 大事なのは、彼らにとって病に苦しむ人とは愛といつくしみの対象であって、恐れや不安の対象ではないということ。ここにまさに、コロナ禍にあるわれわれにとっての回心の出発点を見いだすことができると思う。他者への敏感さはそのままに、恐れや不安を愛といつくしみに置き換えること。もちろん、感染症に対する恐れは医療技術の進展がなければ完全に乗り越えることはできないだろう。しかしながら、それぞれが自分の身を守るために恐れと不安を通して自らのものとした「他者に無関心ではいられない体質」は、たとえば今後治療薬の開発などによって新型コロナウイルスへの不安を解消できた時代がやってきたとしても、いたわりといつくしみの文化として残していかなければいけない、これこそが教会が示そうとする、パンデミック以後の新しい時代への道筋なのだと思う。今年の四旬節は、そのような文化構築のための霊的な準備の時と位置づけることができるのではないだろうか。心に芽生える恐れや不安が悪意へと変わることのないように。善意と優しさとをいつも心に準備しておくこと。苦しむ人にいつも思いを寄せること。

 目指すべき新しい時代の夜明けに、創世記の最後をまとめるヤコブの子ヨセフの言葉を引用する。

 「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(創世記50章20節)

 名もなき義人たちのゆるぎない善意、それを支えた信念がここにある。この世界が、一年以上にわたって味わってきた痛みや苦しみは、われわれの内側に新たな善意と優しさとをあふれさせるいわば霊的なワクチンのようなものだったのかもしれない。