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5月18日 雲仙殉教祭

 5月18日(日)13時から雲仙メモリアルホールで、長崎大司教区主催、長崎北地区評議会担当による雲仙殉教祭が行われ、集まった約800人がともに祈った。

 聖年にあたる今年は、巡礼や免償の意向をもって殉教祭に参加される方は、指定された教会への巡礼と同じように聖年のお恵みをいただくことができるとされ、ゆるしの秘跡がミサの前に、会場向かいのやまびこ会館で行われた。

 また、ミサの後は雲仙地獄にある殉教記念碑まで巡礼し、皆で祈りをささげた。

(写真は、説教をする中村倫明大司教、多くの人が集まったミサ会場の様子、雲仙地獄のキリシタン殉教記念碑そばにある十字架に献花し祈る)


中村倫明大司教による説教
雲仙殉教祭ミサ

2025年5月18日、雲仙メモリアルホール
(福音朗読 ヨハネ13・31-33a、34-35)

♪~音楽~♪
今お聴きいただいた曲は、1996年に放映されていた月曜日9時のドラマ「ロングバケーション」のセナのピアノという曲です。今日はこの曲にまつわる話です。

2014年3月の成田さんというご家族のある朝のことでした。
中学生の娘さんを送り出し、当時51歳のご主人は、会社へ行く準備をしていました。その時、テレビを見ていた奥様が、「そういえば、あなた、約束守ってくれなかったね」って、突然言ったんです。

一瞬、ご主人は何のことかわかりませんでしたが、そのテレビから流れていた音楽が聞こえた時、記憶が蘇ってきました。
18年前のことでした。結婚を控えていたご夫婦は、その当時流行っていたドラマ「ロングバケーション」を好んで見ていました。特に奥様はそのドラマが大好きでした。当時この時間はOLさんたちが街から消えるとまで言われた、話題のドラマでした。

木村拓哉さん演じる瀬名というピアニストが登場します。
結婚前のことだったそうです。二人でそのドラマを見ていた時、奥様が「ピアノの弾ける男の人って素敵よね」と言います。
するとご主人が「じゃあ今度弾いてあげるよ」と、冗談のつもりで言ったんです。
すると奥様は、真顔で「弾けるの?」と尋ねると、「大丈夫、練習すれば誰だってすぐ弾けるよ」と強気で答えていたんです。

でもご主人は、ピアノなど一度も弾いたことはありませんでした。それでも、妻の気を引きたいとの思いから出た、冗談の軽い気持ちでの口約束だったんです。
その後、娘が生まれ、仕事も忙しくなり夜も遅く帰る日々となります。いつしか、遠い昔の話しなど、すっかり忘れていました。

そんな時の奥様の何気ない「約束守ってくれなかったね」の言葉。
実は、その時、奥様は、ステージ4の乳がん、骨にも転移していました。
妻に残された時間はあとわずかでした。ご主人は、家族と過ごすことが一番大切だと考え、会社から早く帰るようになります。

一方奥様は、家族を悲しませまいと、迫る死の恐怖を隠して、いつも笑顔でいてくれたんです。そんな妻を見て、ご主人は思います。
「もしあの約束を果たすことができれば、妻は心から笑って喜んでくれるのではないだろうか」

けれども、もともと音楽が苦手、ピアノも弾いたこともないご主人。その曲の習得には膨大な時間が必要で、それは無謀な事でした。そして、それを行うためには、大切にしようとしていた家族と一緒に過ごす時間は無くなってしまうんです。

でも、ご主人は決めます。食事をした後、「散歩してくるから」といって出かけます。散歩の先は、ピアノ教室でした。
家族との時間は大切でしたが、妻との約束を諦めることはできませんでした。妻が大好きだった「セナのピアノ」を弾いて、妻に、心の底から笑ってほしかったんです。

教室から家に帰ると、家族に気付かれないように毎晩2時過ぎまで電子ピアノにヘッドホンをつけて必死に練習します。でも一向に弾けるようになりません。そのうち奥様は、歩くことすらできなくなりました。

残された時間はあとわずかです。ついには、有給休暇をすべて使い、ピアノのある場所を借り、一日中練習をします。場所代だけで50万円以上かかりました。

そうしながらも、ご主人は悩むんです。「今、この時間も妻は家で一人ぼっちだ、一緒にいてあげた方がいいんじゃないか?」
それでも、妻に心から笑ってほしくて、ピアノを弾くことを選びます。

2016年5月、約束を思い出してから2年たちました。
この日は、結婚記念日(19回目)でした。
ご主人は、見せたいものがあるということで、「夜7時30分、娘と二人で文化センターのホールに来てくれ」と伝えます。
ホールを貸し切っていました。
舞台に立ったご主人は「19年前に戻っていま、約束を果たさせてもらおうかなぁと思っています」そう言って、舞台にあるピアノに向かって弾き始めました。
短いコンサートは終わります。

奥様は言います「ありがとう」そして笑いながら言ってくれたんです「でも下手くそね」って。
この8ヶ月後、ご主人と娘さんに見守られ、奥様は天国へ旅立ちました。

ご主人は、まだ悩んでいました。
「あの時、妻は、本当に心の底から笑ってくれたのか。あれは、自分の自己満足だったのではないか、練習する時間があったら、一分一秒でも一緒にいるべきではなかったか」

妻を亡くして半年後、やっと妻(千恵子さん)の遺品の整理を行います。
その時に、妻のパソコンを開くんです。
すると、最初の画面に「パパピアノ」という見出しがありました。クリックすると、ご主人がピアノを弾いた時の映像だったんです。

妻は自分のスマホで録画していたんです。携帯電話からパソコンにわざわざデータを移したのは、大きな画面で何度も何度も見返すためだったんです。

その映像があるんですが、映すことはできません。
実際の音源だけでもと思ってダビングしてきました。ちょっとお聴きください。
ご主人の挨拶の後、奥様の「セナのテーマ セナのテーマだよきっと」とか、
娘に「彩ちゃんピアノ指導したの?」「いつ習ってたの?」「楽譜も読めるんだすごいな」という言葉、
またピアノを弾き始めてすぐ間違えますが「気にしない気にしない、はい」とか、
最後には、拍手とともに「すごい、すごい」という奥様の声も入っています。
その声まで聴き取ってもらえるかわかりませんが、流してみます。

どうぞ、スーツを着て広い舞台でたった一人、緊張しながら汗かきながら、
一生懸命ピアノの鍵盤を叩いている姿を思い描いてお聴きください。
(♪録音した音)

残された音声には、約束を果たそうとしたご主人への驚き、そして、たどたどしい演奏を励ますように見守り続けていた妻のやさしさと愛情があふれていました。

ご主人はずっと悩んでいました「おれ、間違えてなかったのかな」
ご主人の気持ちは、しっかり伝わっていました。奥様は、心の底から喜んでくれていたんです。ご主人の行ったことを感謝と愛情を持って受け止めている、まるで天国の妻からの答えのようでした。

今日の福音でイエスさまは「お互いに愛し合いなさい」とおっしゃいます。
あの成田さんの家族の姿を見ても思うんです。わたしたちは、たった一人で、愛することなんてできません。愛は他者に向かうものです。ということは、わたしたちが愛することができるように、わたしたちに家族が与えられているんです。

いや家族だけではありません。
わたしたちが互いに愛することができるように、友だちや、地域の人や、共同体やいろんな国の人たちも与えられているんです。争ったり、戦争したりするためにではありません。愛するために与えられているんです。みんな神さまからのお恵みです。

雲仙・島原・有馬の殉教者たちもそうでした。
例えば、有馬川で火あぶりとなった林田家の家族、12歳のディエゴ林田は、しばってあった縄が焼け落ちたとき、お母さんの所に走り寄って、息を引き取るまで、その手にすがっていました。お母さんは息子に「天をあおぐように」とすすめました。そばにいた娘は、自分を焼きこがす薪(たきぎ)を拾い上げ、感謝のしるしに頭上に高くかかげ、天をあおぎました。

内堀作右衛門の家族もそうでした。
3人の子どもたちは、左右の親指と小指を残してみんな切り落とされ、凍てつく有明海にしずめられました。
5歳のイグナチオもいました。
次男のアントニオは「おとうさん、こんな大きなめぐみに感謝しましょう」そう言うと海の中に沈んでいきました。
その姿をお父さんと捕まった仲間たちは、ずっと見守り励ましていました。

お父さん作右衛門は、後日、指を同じように切られ、顔には「切支丹」の焼き印を受け、15人とともに、ここ雲仙地獄につれて来られて、煮えたぎる泥湯の中に落とされます。お父さんも、あの時の子どもたちの姿に励まされていたんです。

殉教者たちは、どんなに苦しくても辛くても命を奪われることになったとしても、互いに「大丈夫だよ」と励ますことができましたし、そして互いに「すごいなぁ」と励まされていました。これが信仰家族でした、信仰の仲間たちでした。

ここに集まったわたしたちも信仰家族です。信仰の仲間たちです。
いままで苦しいこともあった、今だって苦しいこともあります、そしてこれからだって辛いこともあるでしょう。だからこそ、励まし合っていきましょう。
殉教者たちは、「どんなことがあっても大丈夫だよ」って、このわたしたちを励ましてくださっています。

そして、何よりも忘れていけないことがあります。
それは、どんなことがあっても、わたしたちを見捨てることがなく、ともにいてくださる神さまがおられるということです。

イエスさまはおっしゃいました「互いに愛し合いなさい」
でもその時、必ず付け加えておっしゃるんです「わたしがあなたがたを愛したように」って。「愛したように」ですから、もう先に愛してくださっているんです。
あなたがたが愛すれば、わたしも愛しますということではありません。

すなわち、これは「わたしはともにいて、どんなことがあっても、あなたたちを愛しているよ」という、イエスさまの証しなんです。「あなたちを愛しているから、あなたたちも愛し合いなさい、愛することができるよ」とおっしゃるんです。

それに、主がともにいてくださらなければ、わたしたちは互いに愛し合うことなんてできません。殉教者たちだって同じ。主がともにいてくださらなければ、殉教することもできませんでした。殉教は、人間がともにいるという、人間の業よりも、主がともにいるという神さまの業です。

ですから、殉教祭に、今日も、ミサをささげていくんです。
「主はともにいてくださる、そして、わたしたちは確かに愛されている」このことを、この殉教の場所で、毎年来て、殉教者たちの姿を「クリック」して確かめていきます。ここで殉教者たちは命をささげた、そして確かに神さまはともにおられたということを、あらためて確かめていくんです。
今日も、ここでささげるミサの中でしっかり確認していきましょう。

そして、わたしたちも、お互いが幸せになり救われるためにこそ、与えられている、わたしたちの家族、仲間たちを大切にしながら、まわりの人々にも、どんなことがあっても、生きていける、愛し合っていける、そのためにこそ、どんなことがあってもともにいてくださる神さまのことを、殉教者たちとともに、殉教者たちのお取り次ぎを願いながら、伝えていく勇気と力を求めていきましょう。

そして、「互いに愛し合いなさい」とおっしゃったイエスさまから「下手くそだったけど、約束を守ってくれましたね。すごい!」って笑ってもらいたいです。

(説教ここまで)