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9月10日 元和の大殉教400周年記念祭

 1622(元和8)年9月10日、長崎西坂の丘で55人(うち52人は日本205福者)が火あぶりと斬首によって処刑された。「元和(げんな)の大殉教」と呼ばれるこの出来事を記念し、長崎大司教区は9月10日(土)、元和の大殉教400周年記念祭を実施。13時西坂公園で式典、続いてロザリオを唱えながら中町教会に向けて巡礼し、14時から同教会でミサをささげた。

 式典とミサには、中村倫明大司教、髙見三明名誉大司教、日本二十六聖人記念館の元館長で現在イエズス会日本管区長のデ・ルカ・レンゾ師、イタリア・ルッカ大司教区のパオロ・ジュリエッティ大司教、大塚喜直司教(京都教区)、ヨゼフ・アベイヤ司教(福岡教区)、森山信三司教(大分教区)、司祭団、修道者、信徒、奉仕者ら、ルッカ大司教区と韓国からの巡礼団も参加した。

 新型コロナウイルスの影響下、屋内(中町教会)での参加には制限が設けられたが、記念祭の様子はライブ配信された。中村大司教の司式、教区内外から集まった方々の参加のもと、皆で殉教者たちの証しを思い、感謝と祈りの時をともに過ごした。

 

写真1枚目から…

(1)西坂公園での式典の中で講話するデ・ルカ・レンゾ師。二十六聖人像の前には「元和大殉教図」を拡大したパネルが置かれた。手前に見える十字架は韓国殉教福者聖職修道会の神学生たちが作成した木製のもの。

(2)式典では殉教した55人を表す55本の竹が奉仕者によって奉持された。55本の竹は火刑を受けた25人を表すために竹と名前を記した板の一部を前もって炎で焼き、斬首刑を受けた30人を表すために竹の先の部分を鋭く切り取っていた。

(3)続いて、参加者は十字架を先頭に行列になり、ロザリオを唱えながら中町教会に向けて徒歩巡礼をした。

(4)~(8)中町教会で行われたミサでは約260人がともに祈りをささげた。中村大司教が説教師を務めた。

(9)ミサの最後に、元和の大殉教の殉教者の一人、アンゼロ・オルスッチ神父の出身地ルッカからの巡礼団を代表し、あいさつするパオロ・ジュリエッティ大司教。ともに祈りをささげることができたことへの感謝を語った。

 当日のライブ配信の映像は(クリック→)こちら から視聴いただくことができます。


元和の大殉教400周年記念祭 ミサ説教

大司教 中村 倫明

 本日9月10日は、日本205福者殉教者の記念日ですが、中でも、まさにこの日、55人もの人々が一度に処刑された、元和の殉教者たちのことを心に留めて今、祈りを捧げています。

 元和の大殉教の内容については、これまで長崎教区でも、片岡瑠美子シスター、古巣馨神父様、金成根先生から、お話や書き物によって、詳しい内容を学ぶことができました。先ほども、西坂の丘でレンゾ神父様からお話を頂きました。感謝申し上げます。中でも、わたしの印象に残っているのは、片岡瑠美子シスターがカトリックセンターで講演をしてくださった時のことです。シスターのお話が終わり、最後に、シスターの助手をしてくださっていた金先生が、一言こうおっしゃったんです。

 「わたしは韓国人です。韓国では、韓国で一番初めの司祭は、アンデレ金大建神父と誰でも知っています。では、日本の皆さん、日本人最初の司祭は誰ですか?答えることはできますか?」という言葉でした。

 元和の大殉教について様々な観点から話ができるとは思いますが、わたしは今日司祭召命の観点からの話をしたいです。なぜなら、司教の大きな務めの一つは司祭への召命育成を大切にし、そして司祭叙階式を行っていくことだからです。

 「日本人最初の司祭は誰ですか?」

 今日の日のために、はるばるイタリアのルッカから、大司教様をはじめ4人の巡礼団が長崎においでになりましたが、彼らはご自分たちの地元出身の司祭をちゃんと知っておられ、大切にしておられるから今ここに来ておられます。元和の大殉教者の中の一人、オルスッチ神父様です。「イタリア人ドミニコ会の司祭としては日本に最初にやってきた司祭なんだ、彼はルッカ出身なんだ」ということをちゃんとご存知なんです。ルッカの町には、神父様を顕彰した顕彰碑や建物があります。来年は、その神父様の生誕450年だそうです。おめでとうございます。

 では、わたしたちはどうでしょうか。日本人最初の司祭は誰なのか。これまで、いろんな話を伺って学びましたので、もうご存知のはずです。日本人最初の司祭は、本日特別にお祝いしていますこの55人の中にいます。

 福者セバスチャン木村神父様です。イエズス会の司祭として叙階されました。

 ご存知のように、日本に初めてキリスト教を伝えたのは、聖フランシスコ・ザビエル神父様でした。そのザビエル神父様は、「今まで発見されたこの地域のすべての国々のうちで、日本人だけが自分の力でキリスト教を発展させるのに適している。むろん、そこには大きな困難が伴うとしても」(1552年イグナチオ宛)という手紙をイエズス会の創設者、当時の総長イグナチオ神父様(ロヨラの聖イグナチオ)に送っています。その手紙の通り、ザビエル神父様は、最初の司祭候補者2人をヨーロッパに送ります。

 しかし、一人は渡航中に、一人はポルトガルで勉強中に司祭になることなく亡くなりました。その後、日本に送られた指導者には「日本人の新信者が司祭になるにはまだ未熟だ」と考えた司祭(フランシスコ・カブラル)もいましたが、ザビエル神父様来日から30年後(1579年)、日本に巡察師として派遣されたアレキサンドロ・ヴァリニャーノ神父様は、日本での日本人のための司祭養成を考え、有馬にもセミナリヨを開設します。その最初の生徒の一人が木村神学生でした。

 その後、木村神学生は、大分臼杵の修練院(ノビシアド)へ、その後のコレジオでの養成は、秀吉からのバテレン追放令から始まった様々な取り締まりにより日本では難しくなり、神学はマカオのコレジオで修め、その後日本に戻り、1601年の9月に、にあばらルイス神学生と共に日本人最初の司祭として、当時献堂されたばかりの長崎の被昇天の聖マリア教会で、セルケイラ司教様から叙階を受けます。この時、長崎の信者たちは、日本人最初の司祭誕生という歴史的な意味をよく分かっていて、多数の信徒が叙階式にあずかり、最初の日本人司祭たちの祝福を受けたそうです。教区司祭の養成も、この頃から行われていくことになります。

 司祭となった木村神父様は、九州一円で司牧に励みますが、1621年(6月29日)密告により長崎で逮捕されて大村の鈴田牢に入れられます。そこには、すでに、捕縛されていたカルロ・スピノラ神父様(1618年12月13日夜半)やオルスッチ神父様(1618年12月13日ドミンゴ神父と共に捕らえられた)もいました。そして、翌1622年の9月のこの日土曜日、西坂の丘でスピノラ神父様やオルスッチ神父様たち54名と共に殉教します。

 ちなみに、にあばら神父様は、潜伏しながら司牧活動を行っていましたが、1614年の徳川幕府によるキリシタン全国禁教令によりマカオに追放となります。それでも弾圧に苦しむこの私たち同胞を見捨てることができず、1618年6月、小さな船に乗り込んで日本に向かいましたが、船は台風のため難破し、神父様は海の中に消え、日本に戻ることはありませんでした。

 西坂の丘での元和の大殉教の様子は、いろんな方のお話でご存じでしょうから詳しくは申しません。最初、見せしめに30人が斬首された後、木村神父様たち25人は、柱に縛られ火炙りの刑となります。徐々に炙られていく中で、次々に息を引き取っていきますが、最後の一人となったのは木村神父様でした。その殉教の様子を、イエズス会のマヨリカ神父様(ジロラモ・マヨリカ)が、次のようにローマに報告しています。(1623年9月30日付け イエズス会年報)「熱火が彼の内部にゆっくり浸みわたる間、そしてついに幸いな死の瞬間が近づくまで、まる二時間にわたって彼は常に動くことなく、真直ぐに身を保った。彼は地上にひざまずいたまま死を受けとり、頭を深くさげた。それはまるでこの国の習慣であるお辞儀をもって、死を迎えようとするかのようであった。」

 もしかして、最後は跪いて、ご自分の弱さや罪だけでなく、処刑に関わる人々や、自分のことを密告した信者の女性のことさえ、ゆるしを神さまに請いながら息を引き取っていかれたのかもしれません。57歳、21年間の司祭生活でした。そして、日本人司祭として殉教によって最初に命を捧げた司祭でもありました。

 記録によると、当時3万とも7万ともいわれる見物人がいたようですが、見物人の多くは、この55人の中でもこの木村神父様のことを特に見届けようとしてやって来ていたかもしれません。だって叙階の時から木村神父様のことは知られていたでしょうし、また、隠れながらの司牧とはいえ、背丈や容姿で目立つ外国人とはちがって、日本人司祭の方が動きやすかったでしょうから、多くの人に関わることができ、多くの人に知られていたはずです。

 鈴田牢から西坂の刑場に向かう時にも、大村から大村湾を渡った後、長与から西坂までは大勢の護送兵によっての馬での護送で、大村からの25人に近寄ることが難しかったにもかかわらず、あるキリシタン(ジョアン助左衛門)は、木村神父様に近づき、祝福を願い、形見にするために、履物の一部を切り取ったというぐらいです。でもその彼も2日後には家族全員とともに処刑されていきました。

 実は、木村神父様のおじいさんは、平戸でザビエル神父様から最初に洗礼を受けた人だったんです。初めて日本にキリスト教を伝えたザビエル神父様は、この日本からの司祭誕生を望んでいました。その夢が、ザビエル神父様の教えや洗礼を受けた人の孫の時代に実現していったんです。くしくも、木村神父様が殉教する半年前の3月12日に、ローマではザビエル神父様が聖人の位に上げられました。木村神父様は、頂いた信仰に感謝し、ザビエル神父様の列聖を祝うかのように、炎の中で信仰を証しし、命を捧げていかれたと思うんです。

 マヨリカ神父様は、木村神父様の最後について、最後にこう記しています。

 「外教者すらも、この動作から、この不屈の精神の偉大さを推しはかり、天からの力だけが長い時間にわたって神父の体を不動のまま、このような大きな苦しみの中で真直ぐにさせ続けることができるのだと、感嘆しながら語ったのである。」

 キリシタンでない見物人たちだって、天からの力を感じ取ったんです。この木村神父様の司祭叙階式の時もそうでした。その様子を当時イエズス会の準管区長であったパジオ神父様はこう記しました。「この9月に二人のイエズス会士が司祭に叙階された。彼らはこの名誉を与えられた最初の日本人である。叙階式の前に、集まった人々に対し、叙階の秘跡の階級とその尊厳、聖職者の職責と義務について、また日本人としては同胞がこれほど高い身分にあげられるのを見る恵み、永遠の神から日本人が受けるこの恵みについて説教が行われた。列席の日本人たちは、喜びの余り涙を抑えることができなかった。そしてその中の身分ある賓客たちは、日本国民がそこから受けたこの独特の恩恵に対し、司教や会の上長に、叙階式の終わった後も感謝を表して終わるところを知らなかった」(フランシスコ・パジオ1601年9月30日)

 人々は、殉教の時だけでなく、叙階の時にすでに、神さまの存在や神さまの恵みを確かに受け取っていたんです。

 先月の22日です、長崎教区司祭の堤好治神父様の葬儀が行われました。その時に分かち合いをさせていただいたことです。長崎教区のある神父様のお父さまのことです。以前大阪で働いておられたそうです。そんなある時、大阪で司祭叙階式にあずかって感動したんだそうです。そして思います。「おれはここで何をしているんだ。長崎に帰って生まれる子どもたちを神さまに捧げんば。」あの時の叙階式は堤神父様の叙階式だったそうです。お父さんは、長崎に帰り、生まれたお一人の息子さんを教区司祭に、お二人の娘さんを修道会にお捧げくださいました。

 どうぞ、皆さん、今日の殉教者たちの姿を眺めながら、日本人最初の司祭のことを覚えながら、また聖フランシスコ・ザビエル神父様や何よりも神さまの思いを受け取りながら、「おれたちは何をしているんだ」と自分たちを鼓舞していきましょう。そして、あきらめないで、今でもこの長崎にも、けっしてあきらめない神さまのお恵みは確かに注がれ続けている、このことを証ししていきましょう。その大きな具体的な証しの一つが、召命を育て、司祭や修道者を誕生させるということでもあります。

 日本人最初の司祭は、セバスチャン木村神父様でした。わたしたちのそれぞれの小教区においても、わたしの小教区で最初の司祭を出そう、わたしの家系で家族で最初の司祭を出そう、もうすでに司祭が誕生しているところも、「まだほかの所に負けておられんぞ」ぐらいの勢いでいきましょう。

 今日の55人の殉教者、外国から命がけでやって来られた司祭や修道士だって、難しい状況の中で叙階や誓願を受け入れてもらった日本人の司祭や修道士だって、どんなに厳しい迫害下にあっても日本に留まり福音を伝えてくださいました。また殉教者の大半は、そういう方々を匿い助け支えてくださっていた一般の家族の方々でした。今日の55人たちこそ司祭や修道者の召命やその働きを望んでいるはずです。このミサで、その殉教者たちに召命の特別な取り次ぎも願ってまいりましょう。