8月9日 平和祈願祭

長崎原爆投下の日の8月9日(日)、18時30分から平和祈願祭が行われた。浦上教会での平和祈願ミサと、ミサ後に続く、浦上教会から爆心地公園までのたいまつ行列には、国内外の各地から集まった人々が参加し、ともに祈りをささげた。

 聖フランシスコ年(期間:2026年1月10日~2027年1月10日)にあたる今年、平和祈願祭のテーマは「主よ わたしを あなたの平和の道具としてください」。ミサの主司式は中村倫明大司教が務め、髙見三明名誉大司教、大阪高松大司教区の前田万葉枢機卿と酒井俊弘司教、駐日ローマ教皇庁大使のフランシスコ・エスカランテ・モリーナ大司教、また、30人以上の司祭団が共同司式をした。司教・司祭・修道者・信徒ら総勢約800人が心を合わせて祈った。

※駐日教皇大使モリーナ大司教様のメッセージと、中村倫明大司教の説教を以下に掲載いたします。


駐日教皇大使 フランシスコ・エスカランテ・モリーナ大司教
2026年8月9日 平和祈願ミサ前のあいさつ

親愛なる長崎大司教区のペトロ中村倫明大司教様
ご参列の枢機卿様・司教様方
司祭団と修道者の皆様
そして、キリストにおける兄弟姉妹の皆様、

嵐の中で「神の声」に耳を傾ける

今日、私たちが長崎に集っている今、原爆の悲劇の記憶は、依然として人類の良心に対する生きた呼びかけであり続けています。

時の流れは、この記憶の力を薄れさせることはありません。それどころか、平和は決して当然のものとして受け入れてはならないものであり、あらゆる世代が平和を守り、新たに築き上げていく使命を負っていることを、私たちに改めて思い起こさせてくれます。

昨年、日本への原爆投下80年を記念する日が近づく中、教皇レオ14世は、教会および国際社会全体に対し、広島と長崎を単なる歴史的記憶にとどめるのではなく、平和、対話、和解、そして軍縮に向けた永続的な取り組みとするよう呼びかけました。この呼びかけは、あらゆる政治的、経済的、科学的、技術的な決定において、人間の尊厳を中心に据えるよう私たちに促す教皇の回勅『マニフィカ・ウマニタス』と完全に一貫したものです。真の進歩は、道徳的良心や人間の生命に対する絶対的な尊重を欠いては決して築かれることはありません。

こんにち、人類は激しい嵐の中を進んでいます。絶え間なく続く戦争、核兵器の脅威、テロリズム、偽情報、憎悪、そして人々の間の分断の深刻化といった問題に直面しています。

戦争という悪魔は、爆弾が炸裂するずっと前から始まっています。
それは、憎しみが愛に取って代わるとき、他者を人間として見なさなくなるとき、自己利益のためだけに人を利用するとき、連帯感よりも貪欲が勝るとき、嘘が真実に取って代わるとき、内なる平安を失い、慈悲の代わりに恨みを抱くようになったときに始まります。戦争は兵器庫から始まるものではありません。すべての戦争は、兄弟姉妹であることを認めなくなってしまった心の中から始まるのです。

しかし、福音は、恐れが決して私たちの決断の基盤となってはならないことを私たちに思い出させてくれます。平和は、恐怖に対する対抗手段として生まれるのではなく、神への信頼と、すべての人間の尊厳を認めることから生まれるのです。

列王記の預言者エリヤの箇所は、神は暴風や地震、あるいは火の中ではなく、そよ風のささやきの中に御自身を現されるのだと教えています。(列王記上 19:12)

武器の轟音が理性を押し流してしまうかのようなこの世界においても、神の御声は良心の静寂の中で私たちに語りかけ続け、対話と赦し、そして和解へと招いておられます。平和とは、単に戦争がない状態のことではありません。それは、和解した心と、正義と真実に基づいて築かれた社会を必要とする、神からの賜物なのです。

長崎の記憶は、今日、私たちに、この世の喧騒の中で神の御声に耳を傾けるよう招いています。その御声は、平和は爆発の轟音の中にあるのではなく、良心に語りかける穏やかなそよ風の中にあること、力の論理の中にあるのではなく、奉仕の中にあること、恐れの中にあるのではなく、信頼の中にあること、憎しみの中にあるのではなく、すべての人間に神の御姿を見出す愛の中にあることを、私たちに告げています。

主よ、私たちに、信仰の灯を絶やすことなく燃やし続け、沈みゆく兄弟姉妹に手を差し伸べ、真の平和の匠(たくみ)となれるよう、恵みをお与えください。そうして、人類が二度と広島や長崎で経験したような惨劇を目の当たりにすることがありませんようにと願います。アーメン。

駐日教皇大使 フランシスコ・エスカランテ・モリーナ大司教


中村倫明大司教による説教
平和祈願ミサ

2026年8月9日(日)18時30分、浦上教会
主よ わたしを あなたの平和の道具としてください(ヨハネ20・19-23)

♪ あなたの平和の 道具にしてください
主よわたしをあなたの 平和の道具に ♪

「主よ わたしを あなたの平和の道具としてください」この祈りは、実際にはアッシジの聖フランシスコの作ではないようですが、聖フランシスコの精神や生き方がよく表現されているということもあって、一般的には「アッシジの聖フランシスコの平和の祈り」ということで呼ばれています。

本年の平和祈願祭のテーマは、ミサの前に高校生の方が案内なさったように、「主よ わたしを あなたの平和の道具としてください」ということです。

先ほど朗読された福音において、復活なされたイエスさまが、弟子たちにご出現になられた時の言葉は「あなたがたに平和があるように」というお言葉でした。それも繰り返しおっしゃいました。

「あなたがたに平和があるように。」これがイエスさまの切なる願いです。

今なお世界のいたるところで対立や分断が起こり、権力や暴力による支配がまかり通り、富や武器の力によって相手を押さえつけ、核兵器を所有する抑止力こそが平和維持であるかのように思っている方々もおられます。

そういう中で、このわたしたちはあらためて、まずイエスさまのみ言葉をしっかり受けとめなければなりません。
「剣を持つものは剣で滅びる」
「武器を持つものは武器で滅びる」
「核兵器を持つものは核兵器で滅びる」
また歴代の教皇様方とともに「武器を手にしたまま、愛することはできません」(聖パウロ6世)と表明しなければなりません。
現教皇レオ14世教皇様も「戦争はもうたくさん」「平和を生み出すのは核ではなく軍縮だ」、そう訴えておられます。
それに、被爆者の皆様方と一緒に「核兵器は人類と共存できない」、とわたしたちも一緒にそう叫んでいかなければなりません。

イエスさまがご復活なされて間もなくのこと、弟子たちはユダヤ人を畏れて、自分たちの家に、そして、自分たちの心にも鍵をかけていました。
ならば、その家に、その弟子たちの心に、イエスさまが入るためには、ある国々が行っているように、その国の扉を力づくで蹴り破って侵入・侵攻したり、また、戸口だけでなくその家、その国、その心全体を爆弾で破壊することだってできたでしょう。
でもイエスさまはそうではありませんでした。

イエスさまはどうなされたのか。旧約の預言にある通り、
「剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌(かま)となさる」(イザヤ2・4)そのお方は、憎しみや恨みを打ち直して愛とゆるしを与え、武器を打ち直して、イエスさまご自身が平和と和解の鍵となられたんです。

その鍵によってしか、わたしたちの平和への道は開かれていかないのです。
その鍵によって家に入り、弟子たちの心に入られたイエスさまはおっしゃいました。「あなたがたに平和があるように」

わたしたちも、イエスさまと同じ鍵を持ちたいです。いや、わたしたち自身がイエスさまと同じように、同じ平和の鍵に、平和の道具となっていきたいです。

その鍵となるための大きなヒントを、聖フランシスコの平和の祈りは教えてくれます。
憎しみを愛に変え、争いを和解に。分裂を一致に、絶望を希望に、悲しみを喜びに、そして暗闇を光に変えていくことです。

そのためにはどうすればいいのか。平和の祈りは続けます。
理解されるよりも理解すること。こちらから理解していくこと、まずこちらから愛していくこと、ゆるしていくこと、理解していくこと、そして、わたしの方から与えていくことです。

その大きな証しであるのが、ご聖体です。
昨年のわたしたち長崎教区は、被爆80年戦後80年ということで、この浦上教会で、前日8日の夕方から、ご聖体を顕示して夜通し祈りました。実はその前、聖エジディオ共同体の方々も3日も前からずっと祈り続けていました。
わたしたちが平和の道具となれるように、わたしたちは去年徹夜してこのご聖体を徹底的に眺めていたんです。
アッシジの聖フランシスコが、自分の修道会の会員たちに向けて書いた手紙の一節を思い出します。

♪ 神のみ子が わたしたちの 救いのために
この小さな パンの中に 隠れてまします
見よこの偉大な 謙遜を
なんと謙遜な 偉大さか
震えおののけ 揺れ動け 喜び踊れ
すべての人よ すべての地よ 天よお前も ♪

偉大な神さまが小さくなられました。
わたしたちの所においでくださった時は、小さな幼子の姿でした。
生涯の終わり、最後の晩餐の時には、小さくなって、身をかがめて、弟子たちの足を洗ってくださいました。
そして、その晩餐の最後には、ご自分を小さなパンにして、
その小さささえもなくし、食べられて消えていくんです。

わたしたち人間は、他人よりも強くなろうとします。他人よりも力を持とうとします。
核兵器を所有し、それも他人よりも多く所有しようとします。
その製造費や保存費の一部を頂けるだけでも、多くの人が、貧しい人たちが、小さな人々が救われるのにです。
食べるにも困っている人たちが沢山いるにもかかわらず、多額のお金はその方々を救うために回されることなく、戦争や大量兵器に回され、多くの人を殺すために使われていくのです。

わたしたち人間は、同じ人間をさげすみ、しいたげ、物のように自分たちのために利用していきます。小さな人々から家や財産をむしり取り、命までむしり取り、破壊していくんです。自分が生きるために、他人を食いものにしていくんです。

いやいや人間は、人間だけではなく、神さまをさえ食いものにして、神さまをさえ自分のために利用していくんです。これが人間の醜い姿です。人間の罪の歴史です。

そういうどうしようもなくつまらない人間を、神さまこそ、食いつくし、
滅ぼしつくしてよかったんです。
ところが、神さまは、こんなわたしたちを食いものにしないどころか、
わたしたちを見捨てずに、逆にご自分の身を捨てて、
「このわたしを食べろ」そう言って、ご自分を差し出していかれる。
これがご聖体です。ご聖体の秘跡です。
今日わたしたちは、このご聖体の秘跡にあずかっていくのです。

神さまは、わたしたちの命を奪うのではなく、ご自分の命を与えてくださいます。
だからわたしたちは本当に救われていくんです。

どうぞ、今日も、ご聖体を感謝のうちに頂き、わたしたちの信仰の味を確かめていきましょう。わたしたちの信仰はこれなんだ。

そして、このわたしたちも、人をバカにし人を軽蔑し人を食う生き方ではなくて、
人を大切にし、少しでも自分を与えて、そしてともに生きていくというこの生き方を通して、平和を実現していくことを願っていきたいと思います。

わたしたちはみんな、本当は、生きているというよりも、いろんなものや人によって生かされているんです。
この、生かされている、このことを知り、学んでいく時、「では、このわたしも他人を生かしていこう」そういうあり方があることを発見していきます。
そして、何よりも、わたしたちはみんな、神さまから命を頂き、守られ、支えられ、生かしてもらっている、そのことに気付いていきます。

本日も、この平和祈願祭のミサにおいて、聖変化において、またイエスさまご自身を頂いて、このわたしたちもイエスさまの体にともに変化させていただきましょう。
そして、わたしたちも、イエスさまとともに、イエスさまのように、この自分を他人に与えていく者となって歩んでいきたいと思います。

ミサの後のたいまつ行列は、戦(いくさ)を始める雄たけびの行列ではありません。ご聖体行列や聖母行列のように、わたしたちを平和の光として、平和の道具として、人々に示していく平和の行列です。
どうぞ、わたしたちを、平和のともし火として、周りの人々に与えていきましょう。

わたしたちのあったかい励ましの言葉や、人をほっとさせる微笑みを、自分の大切な時間を少しでも、自分に与えられた才能を人々の幸せや平和のために、分かち合っていきましょう。

そして何よりも何よりも、わたしたちに与えられている平和と希望の福音を人々にちゃんと伝えていきましょう。

最後に、アッシジの聖フランシスコの手紙の続きをお聞きください。その言葉は、名誉も権威も、あらゆるものを捨てて、イエスさまのように小さくなり、貧しさを選び、すべてを与えることに生きた者の言葉でもありました。

♪ 兄弟たちよ この神の 謙遜を考えよ
主のみ前に 心開き 願いを捧げよ
へりくだれ そうすれば 父なる神が
高めてくださるでしょう あなたたちも
ご自身を 残りなく 与えになった
この神の 謙遜を 考えてみなさい

完全に 受け入れて くださるために
何ひとつも 自分のため 残さぬように
神に授かった ものならば
神に もう一度 返さねば
ご自身を 残りなく 与えになった
この神の 謙遜に ならって生きよう ♪


(説教ここまで)

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