12月28日 2025聖年閉幕ミサ

 2024年12月29日に開幕した、25年に一度の通常聖年。「希望の巡礼者」をテーマに全世界の教会がともに過ごしてきたこの2025聖年は、バチカンで2026年1月6日に、世界各地の教区で2025年12月28日に閉幕ミサが行われ終了する。

 長崎教区においては12月28日(日)14時から司教座聖堂である浦上教会で聖年閉幕ミサが行われ、中村倫明大司教の主司式、約50人の司祭団の共同司式のもと、聖歌隊を含む約800人の信徒らが参加し、聖年の恵みをいただいた感謝のうちにともに祈った。ミサの終わりには、聖年期間中に教区が呼びかけた平和作文コンクールの表彰式と、教区で作成した新しい祈祷書の使用開始式があった。

写真は、閉幕ミサの様子とミサ前に撮影した被爆十字架。被爆十字架は聖年期間中、浦上司教座聖堂の祭壇横に顕示された。 被爆十字架については 2024年12月29日聖年開幕ミサのページ をご参照ください。


中村倫明大司教による説教
2025聖年閉幕ミサ

2025年12月28日(日)14時、カトリック浦上教会

「希望の巡礼者」の聖年が終わります。
皆さま、この一年間、ありがとうございました。
教区のそれぞれの委員会は、シノドスコア―チームを中心に、いろんな行事を主催してくださいました。

特に「希望の巡礼者」ということで、指定教会を設けての巡礼が盛んに行われました。このミサにも、指定教会すべてを巡礼された皆さま方もおいでくださいました。あらためまして、巡礼指定教会・全制覇おめでとうございます。

そうやって、この年は、巡礼も行いながら、わたしたちの祈りと回心の時であり、特別の免償をいただける時でした。

しかも、凄かったのは、多くの皆さま方は、この年の免償やお恵みを、ご自分のためだけではなくて、亡くなられた方々のためや、苦しむ人々、助けを必要としている方々のために与え譲ってくださったことです。
皆さま方が、自分のためだけではなく、他人のために祈り歩いていたこと、これこそが希望でした。

この聖年中に起こった大きな出来事もありました。
日本にも巡礼くださったフランシスコ教皇様がお亡くなりになられたこと、
そして、レオ14世教皇様が誕生なされたことです。
これからわたしたちは、新しい教皇様とともに歩んでいきます。

昔、『法王の旅』という映画がありました。法王とは、教皇様のことです。

映画は、新しい教皇様が選ばれる場面からはじまっていきます。今から45年前(1985年)の作品ですが、その時、映画の中で選ばれた教皇の名は、何とレオ14世という設定になっていたんです。映画の一番最後に明らかになります。

新しく選ばれた教皇の仕事は激務でした、しかも、儀礼的な面会等も多かったんです。
教皇が、一番気になっていたのは、バチカンという高い塀の中で、一般の人々と直接関わることができないという事でした。

そういう中で、教皇は、バチカンにやってきた、イタリア人のイザベラという耳が聞こえない少女に出会います。彼女は、村人たちと一緒にやって来たんですが、迷子になっていました。

教皇がイザベラに「どうしてローマにやってきたのか?」と尋ねると、「教皇様に『村に司祭がいない』ということを伝えるためだ」と答えます。
教皇は「安心しなさい。わたしがちゃんと見つけるから」と約束します。

ある日のこと、教皇が、バチカンの中庭で花壇の手入れをしていた時、手にしていた紙が風にあおられ、バチカンの外に出てしまいました。それを追った教皇もバチカンの裏口から外に出るまではよかったんですが、そのままバチカンの外に締め出されてしまうんです。

防犯カメラの監視員は、テレビ中継のサッカーに夢中になっていて、教皇が外に出たことに気付いていませんでした。バチカンは、「教皇がいなくなった」と大騒ぎになりますが、バチカンの報道は「教皇は風邪で長期療養中」ということにします。

外に出た教皇は、お腹が空き、お店でピザを注文します。店主から「新しい教皇に似ているね」と言われると、「よくそう言われます」と笑顔で答えます。しかし、普段着で、しかもお金も持たずに外に出てしまっているんです。
「お代は必ず払うから」と言っても、聞いてもらえず、店の主人からは「地獄へ落ちれ」と言われて追い出されていく始末です。道端に座りこんでいたら、お金を恵んでくれる人もいました。

そういう中で教皇は、イザベラとの約束のことを思い出すんです。そして、ある教会に入り、告解場に向かいます。
「神父様、わたしは司祭です。今迷っています。やりたいことがあるんです。でも、それが良い事なのかわかりません。自分の勝手な望みなのか、それとも神さまの導きなのか。助言をください。」
そう真剣に尋ねるんですが、告解部屋の格子窓から中を覗くと、司祭はいびきをかきながら居眠りをしていました。

その後、教皇は、ヒッチハイクを繰り返しながら、イザベラの村に入ります。そして、イザベラを見つけて伝えます「わたしは君との約束を果たすために来たよ。でも、わたしが誰であるか、誰にも言わないでね。」

貧しい村でした。かつては地震が起こり、疫病も流行ったそうです。そして、その時も、多くの人々は、まだ疫病にかかっている芝居をしていたんです。国から援助を頂くためです。人々は、援助に味をしめ、働こうとしません。

あえて行うことといえば、ゴミ捨て場から、まだ使える物や金になるものをあさっていくことでした。教皇もイザベラと一緒に、ゴミの山へ向かいます。
イザベラは、ゴミの中から、古着と、そして捨てられてあった十字架を拾いました。

教皇は考えます。
「村にとって、大切なのは、人々が働くことだ。そのためにはまず、村の大地に水を引くことが大切だ。」

そこで教皇は、素人ながら、簡易の灌漑(かんがい)設備の仕事に着手していきます。ところが、教皇の行動を村人は喜びません。「よそ者がやってきて、余計なことをしやがって」と煙たがるんです。それだけではありません。灌漑の一部分を作りかけても、燃やされたり、嫌がらせや、妨害がありました。

そういう中で、教皇は、信仰を失って、その村で暮らしていた司祭と出会います。この司祭は、村人の苦しみや悲しみに触れ、それだけじゃない、人間の醜さやずるさにも触れて「神さまなんていない」と神不信に陥っていたんです。

ところが、教皇と出会い、教皇が人々ともにいて、人々を救おうとする働きに触れ、「神さまは決して見捨てていない」という事を、また信じ始めていくんです。そして、再び村人のために、また司祭として働いていくことになります。

村人たちも、やがて協力してくれるようになり、簡単な灌漑設備がやっと完成します。

とうとう教皇との別れの日がやってきます。
イザベラは、ゴミの中から拾っていた十字架を教皇に渡します。
教皇は伝えます「この村で行えたのは、君がわたしに会いにきてくれたからだよ。」

その後、バチカンでの復活祭の時を迎えます。復活のメッセージを聴くため、世界中から多くの人がバチカン広場に集まりました。その中に、イザベラとその村の人々もやってきていました。

村人たちは、村にきて灌漑設備を作ってくれたのは、教皇様だったということを知ります。
その時の教皇の胸には、イザベラからもらった、ゴミから拾われた十字架がありました。

ゴミから拾われた十字架は、「見捨てられていない」ということのしるしでした。そして、死んでいる状態から生き返るという復活の姿でもありました。

わたしは、この映画『法王の旅、巡礼』を見ながら、思うんです。実は、神さまこそが、このわたしたちのところに巡礼してくださったんです。これまで歴史の中で、最高の「希望の巡礼者」は、イエスさまでした。
イエスさまは、ご自分が神であることを無にして、へりくだって赤ん坊にまでになり、最後は十字架に架かるまでなさって、このわたしたちに、救いの希望を伝えるためにおいでくださったんです。

今日の福音でも、イエスさまは、家族と共に、命を狙われている苦しむ難民としてエジプトに向かい、また、当時、有名でもない小さな町、ナザレにも巡礼なされていかれます。
それは、この小さなわたしたちの所に、巡礼をしてくださっているということです。

わたしたちは、耐え難い、この世の沢山の悲しみや苦しみを背負っています。
いろんな困難な問題を抱えています。自ら犯した罪にまで押しつぶされそうになって、「わたしは、わたしたちはもうダメだ」と失望しています。

そんなわたしたちのところにやってきてくださって、「大丈夫だよ。わたしは見捨ててなんかいないよ」そうおっしゃって、このわたしたちを抱きしめてくださるんです。

抱きしめて、「愛しているよ。わたしはあなたとともにいるよ。だから、あなたも、また人を愛するために、人を受け入れるために、ともに歩いていこうよ。」
そう伝えるために、わたしたちの所においでくださったんです。
これが、わたしたちの神さまの姿です。

わたしたちの「希望の巡礼」は、これからも続いていきます。
だって、わたしたちのところにおいでになられた、まことの「希望の巡礼者」である主は、これからも、わたしたちとともに歩むために、わたしたちを抱きしめながら、わたしたちとともにいてくださるんです。
これが、わたしたちが続けているシノドスの歩みでもあります。

そこで今日は、わたしたちのところにおいでくださり、とともにいて、わたしたちを抱きしめてくださる神さまを、わたしたちも抱きしめていきましょう。

そして、次は、この神さまとともに、希望を失っている、この世界に、困難さを抱えている人々に、わたしたちの教会に、それぞれの家庭に、職場に、学校に、出会う人々に「大丈夫だよ。主はともにいるよ。わたしもともにいるよ」と、希望の声かけを行いながら、人々を温かく迎えていく、あったかい心で包み抱きしめていく、わたしたちの巡礼を続けてまいりましょう。

(説教ここまで)


 

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