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2月19日 大浦天主堂献堂150周年記念ミサ

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 2月19日(木)19時から大浦天主堂で献堂150周年を記念するミサが行われ、髙見三明大司教主司式、司祭団20人余の共同司式のもと約200人が共に祈った。

 ミサの中では、新しい祭壇の祝福式と教区シノドス(教区代表者会議)提言書署名式も合わせて行われた。

 写真は(上から)新祭壇の祝福、信徒発見の聖母像が見守る中でささげられるミサの様子、髙見大司教による教区シノドス提言書の署名。

 

以下、髙見大司教による大浦天主堂献堂150周年記念ミサの説教を掲載します。

【2015年2月19日 大浦天主堂献堂150周年記念 ミサ説教(大要)】

1. 大浦天主堂創建の経緯 ~日本の教会の歴史の中で~

 フランシスコ・ザビエルが平戸に福音をもたらしてから60年余、キリスト教は発展していきましたが、豊臣秀吉の「キリシタンは邪法である」という見方を踏襲した徳川家康は、1614年、全国に禁教令を布きました。その結果、ただちに全国の教会堂は破壊されていきました。長崎の町だけでも当時10以上の教会がありましたが、ことごとく壊されました。従って、その後の世代のキリシタンは、教会堂を見たことがなかったわけです。

 しかし、安政の条約といって、アメリカ合衆国、ロシア、フランス、オランダ、イギリスの5カ国と江戸幕府との間で交わされた修好通商条約に基づいて、長崎以外の4つの港町に、それら5つの国の人が居住し、それぞれの宗教の建物を建てることができました。

 そういうわけで、1862年1月12日、日本国布教総責任者のパリ外国宣教会ジラール神父様が、横浜居留地で聖心教会の献堂式を行いました。その年の6月8日、教皇ピオ9世は、日本26福者殉教者を列聖して、世界の目を日本の教会に向けさせています。そして12月に、フューレ神父様とプティジャン神父様が、日本語などの勉強をしながら待機していた琉球(沖縄)から横浜へやって来ました。

 二十六聖人の列聖式に参加して帰国したジラール神父様は、翌1863年1月にフューレ神父を長崎に派遣しました。デュリー仏副領事のもとで約1カ月居候し、教会建設のための土地を捜しました。最初見つけた土地は、ジラール神父様から「狭すぎる」と言われたため、居留地の外にあった現在地を、当局の特別な許可をもらって買い求め、造成工事を始めました。まず司祭館を建て、教会の敷地の地ならしをしている8月にプティジャン神父様が長崎に着きました。

 翌1864(元治元)年1月にジラール神父様が横浜から長崎に来て、8月の初めまで工事の監督をしています。その間、プティジャン神父様は横浜に滞在し、再びジラール神父様と交代して長崎に戻りました。10月にフランスへ帰ったフューレ神父様と入れ替わるように、11月に、ローケーニュ神父が長崎に着きました。こうして、12月29日に大浦天主堂が竣工しました。

 プティジャン神父は、二十六聖人殉教記念日の2月5日に献堂式を行いたかったそうですが、ジラール神父の都合でかなわず、結局、1865(元治2)年2月19日に行われました。献堂式には、長崎港に停泊していたフランス、ロシア、オランダ、イギリスの軍艦の船長や儀仗兵が参加し、祝砲も放たれましたが、長崎奉行をはじめ、建設中は見物に来ていた市民も、誰一人来なかったそうです。

 実際、この聖堂で、3月17日、浦上の信徒がプティジャン神父に信仰を表明することになるのです。

 

2. 教会共同体の信仰のより所

 キリストは、エルサレムの神殿を壊せば、3日で建てなおすと言われましたが、それは御自分のからだのことでした。このキリストのからだは、教会共同体のことです。教会は、まず建物ではなく、キリストを信じる人々の共同体です。しかし、人間の共同体でもありますから、集まって共に祈り、信仰を確認し、養っていただくための場所が必要です。それが教会堂です。

 大浦天主堂は、幕府との条約に基づいて、本来は、フランス人や他の外国人のために建てられました。しかし、この聖堂の塔には大きな十字架が金色に輝いていましたし、プティジャン神父様は、あえて正面に漢字で「天主堂」という金文字を書きました。横浜の天主堂に次いで、2つ目の、天主堂という文字を掲げた教会でした。それは、もしキリシタンがいれば、きっと教会だとわかってくれるだろうと考えたからでしょう。またいずれは日本の信者たちの教会にしたいという思いがあったからかもしれません。

 そのプティジャン神父様の思いに引かれるように、浦上の信者たちが、神父様を訪ね、信仰を打ち明けたのです。彼らは、教会には神父様がいて、サンタ・マリアがおられる。そして洗礼が授けられ、ミサがささげられる。まさに信仰のより所だということを実感したのではないでしょうか。

 中島政利神父様によると、大浦天主堂の正式名称は「日本二十六聖殉教者聖堂」です。プティジャン神父様は、この聖堂を26聖人の殉教地に建てたかったのですが、許されませんでしたので、せめて殉教地の方に向かうように建て、聖堂の保護の聖人を日本二十六聖人殉教者として仰ぐこととしました。それは、殉教者を排出するほどの信仰を持っていた日本人の生き方を模範として、伝えていきたい、この日本において真の信仰を証ししていきたいという強い望みを持っていたためにちがいありません。

 わたしたちも、この教会に集って、神を礼拝し、感謝し、必要なことを神に祈り求めるだけでなく、殉教するほどの強い信仰を養ってもらわなければなりません。

 

3. 福音宣教の出発点

 大浦天主堂は、初期の教会堂の特徴(ゴシック、バロック、クラシック)を持ち、歴史的・文化的価値の高い貴重な建物として、1932(昭和7)年11月26日、国宝に指定された。『長崎カトリック教報』昭和7年12月15日、第100号 1頁参照)

 今や、世界文化遺産として正式に登録されようとしている「長崎の教会群」の筆頭に上げられ、長崎を象徴するほどの存在感があります。わたしたちはこの教会を無償で、贈り物としていただいています。深い感謝の気持ちを持たなければならないと思います。

 地方自治制定60周年記念に千円硬貨と五百円硬貨、そして切手が発行されますが、そのすべてのメインのデザインは大浦天主堂になっています。

 キリスト教、カトリック教会、キリストの福音、このようなことを広く人々に知っていただくチャンスが与えられていると考えます。日本における教会の歩みについてもより正確に、より詳しく知っていただく機会が与えられています。このチャンスを逃さず、生かさないといけません。

 かつてキリスト教は栄え、信者もザビエル神父到来後60年で現在の信者の数ほどになっていました。しかし、邪宗と断定されて、キリスト教は信じることを禁じられたのです。今、その逆境から解放されて150年たとうとしています。この自由な時代をもっと大切にし、より積極的に自分たちの信仰を生きて伝えなければなりません。先祖たちがいのちがけで守った信仰をわたしたちの代で無くしてしまってはなりません。むしろ、積極的に発信し、広く伝えていかなければならないと思います。

(説教は以上です。)