被爆80年、戦後80年を迎えた今年、カトリック長崎大司教区は8月9日(土)夕方、平和祈願祭を行った。今年のテーマは「パーチェ! パーチェ! Pace(パーチェ)!」。平和を意味するイタリア語を含んだテーマは、教皇の意向に心を合わせ平和を求める叫びを表したもの。
長崎原爆のこの日、国内外から集まった多くの人々が、18時浦上教会での平和祈願ミサと、ミサ後20時前に浦上教会を出発した爆心地公園までのたいまつ行列に参加し、特に聖年にあたって希望を携え、平和への祈りをささげた。
1枚目の写真の左側に見えるのは、被爆マリア像と被爆したキリスト像。
関連ページ→ 教区トピックス 8月9日更新 教皇レオ14世から被爆80年にあたってのメッセージ(平和祈願ミサにおいて)
※以下の3つは、原爆投下80年にあたり今年8月に広島と長崎を訪れたアメリカの巡礼団の平和巡礼に関する Catholic Standard の記事です。
中村倫明大司教による説教
平和祈願ミサ
2025年8月9日(土)18時、カトリック浦上教会
(福音朗読 マルコ9・42-50)
(♪大司教による歌唱)
被爆のマリア 被爆のマリア おしえてほしい
あなたの清い そのひとみ どうして どうして 無くなったの
それはね それはね 哀しいものを見たからさ
被爆のイエス 被爆のイエス おしえてほしい
あなたの手足 その顔は どうして どうして 失われた
それはね それはね 人が犯した 罪のため
80年前の8月9日、午前11時2分、長崎浦上のおよそ500メートル上空にて、原子爆弾がさく裂しました。長崎の町は、焼け野原となりました。
その時、長崎市民24万人のうち約7万4千人が亡くなりました。浦上のカトリック信者だけでも、当時1万2千人のうち、その半分以上、8千5百人が命を失います。そして当時、「東洋一の大聖堂」と謳われていた浦上天主堂もほとんど崩壊しました。
その崩壊した瓦礫の中から、皆さま、よくご存知、木製の被爆マリア像と被爆十字架が見つかります。
それに、壊滅状態の天主堂の正面入り口のほんの一部が、崩れながらも残りました。そして、その残った部分に掲げられていた十字架上のキリスト像も残っていました。
そのキリスト像が、本年迎えています「希望の聖年」の間、祭壇の脇に置かれているものです。
このキリスト像には、頭がありません。被爆直後の写真ではまだついていたようにも見えますが、今はありません。片腕もありません。両足も片方は膝下から、もう片方は腿(もも)から下は無くなっています。
第二次世界大戦時のドイツのある村の話を耳にしたことがあります。戦争によって、その村も激しい爆撃を受け、村にある教会も大きな被害にあいました。戦争が終わり、村人達は教会の修復にとりかかります。
聖堂内正面にかかっていた大きな十字架も被害を受けていました。爆風を受けてのことでしょう、十字架のイエスさまの両腕が無くなっていたんです。教会の人々は、話し合いました。「この十字架をどうしようか。処分して、新しい教会に似合う、新しい十字架を掲げようか」
話し合いの結果、その十字架を、そのまま残すことにしたんです。そして、イエスさまの両腕が無くなり、十字架の横木のみが現れている部分に、イエスさまの言葉として文字を書き入れたんだそうです。
「わたしはあなたがたの手以外に、自らの手を持たない。」
(Ich habe keine andere Hände außer eure )
ここ長崎でも同じようなことが起こりました。祭壇の横にある十字架のイエスさまの頭も手も足もなくなっています。マリアさまだって、頭部だけが残り、しかも、そのお顔は黒く焦げ、目は無くなっています。
戦争を引き起こしたり、殺人兵器を作ったのは、わたしたち人間の手です。
本当は、聖書に「平和を実現する人々は幸い。その人たちは神の子と呼ばれる」とありますように、わたしたちが、平和の主である神の子どもであるならば、わたしたちは、他人を愛するため、他人と手をつなぎ合っていくため、平和の実現のためにこそ、このわたしたちの手や足を使っていかなければならないんです。
なのに、わたしたちは、本来の目的や使命とは真逆なこと、他人を排除し、傷つけ、破壊するために、このわたしの手足や、わたしの頭を使っていくんです。
そういうわたしたちに、先ほどの福音は語ります。
「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。
もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。
もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。
両方そろったまま滅びるよりも、一つになっても片方だけになっても救われる方がよい。」
武器を手にし、他人の領地や命の領域にも踏み込み侵攻していく、他人が苦しむのを喜んで眺めていく、そういうわたしたちの手や足や目こそ、本当は、切り捨てえぐり出さなければなりません。
なのに、こんなわたしたちのために、主こそが、マリアさまこそが、わたしたちの代りに、両手を失くし、両足を失くし、両目まで失っていかれるんです。
アレルヤ唱で歌いました「神の右の手は高くあがり」
神さまの力を表す表現です。でも、高く上げていくその手はないんです。
いやいや、戦争がなかったとしても、原爆が落とされなかったとしても、たとえ十字架上のイエスさまの手や足が残っていたとしても、その手や足は、わたしたちによって、すでに釘にて打ち付けられ、もう動かすことができなくさせられています。
本当は、イエスさまの手とともに、わたしたちの手を働かせていかなければならない。いやもっと言うと、わたしたちは、イエスさまの手となって生きていかなければならないんです。それなのに、わたしたちは、自分たちのこの手や足や頭を使って、他人を傷つけ殺していくんです。
本来の神の子どもとしてのわたしたちに立ち戻りましょう。
わたしたちに与えれている本来の使用のために、本来の使命のために、このわたしの手足を、このわたし自身を使っていきましょう。
第一朗読でイザヤが述べました。「剣(つるぎ)を鍬(くわ)にかえ」ていきましょう。
わたしたちが握っている暴力の拳(こぶし)や凶器や武器を捨てること、この手で行っている核兵器を作ることや使用することをやめ、このわたしたちの手を、他人と手をつなぐため、他人を愛し抱きしめていくためにこそ使っていきましょう。
どうぞ、隣の人と手をつなぎ合ってください。そして、このミサで、神さまと手をつないでいきましょう。神さまの手と一つになっていきましょう。
わたしたちの手は欺くことがあります。これまでも何度も欺いてきました。他人を傷つけ、滅ぼしてきました。でも神さまの手は欺くことがありません。
第二朗読で、聖パウロが言うように、わたしたちは神さまの敵となりました。それでも、神さまは、罪を犯し敵となったわたしたちをも滅ぼすことなく、ゆるし、わたしたちの回心を待ち、こんなわたしたちの代わりに、ご自分の命まで捧げてくださいます。その神さまの手にこそ、希望があります。わたしたちも、その神さまの手となって生きていきましょう。
わたしたちの平和は、どうようにこのわたしが、このわたしの手を使っていくのか、この手にかかっています。
わたしたちの平和は、わたしたちがどのように歩むのか、わたしたちのこの足に、そして、わたしたちの平和は、このわたしたちの考え方や眺め方、わたしたちの生き方にかかっています。
すなわち、「キリストのように生きるか」ということにかかっているんです。
キリストのように考え、キリストように話し、キリストのように行い、キリストのように愛することです。
どうぞ、そのためにも、今日も、わたしたちを愛するがゆえに、このような姿にまでなられた、被爆のイエスさまを、被爆のマリアさまを、しっかり眺めて、本来のわたしたちの歩みをあらためて始めていきましょう。
(♪大司教による歌唱)
被爆のイエス 被爆のマリア 教えてほしい
わたしの好きなこの町に ほんとの 平和は おとずれるの
それはね それはね あなたがいかに 生きるかさ
(説教ここまで)


