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9月10日 『旅』の終わり150周年記念 十字架山殉教祭

  

 9月10日(日)長崎市辻町の十字架山で殉教祭が行われ、150人を超える信者が集まり共に祈った。この殉教祭は例年、浦上小教区をはじめとする長崎中地区の教会が中心となってささげており、『旅』の終わり150周年にあたる今年は長崎教区主催として行われた。ミサの主司式は中村倫明大司教に代わり、葛嶋秀信師(教区本部事務局長)が務め、他7人の司祭が共同司式をした。

 教区は2018年『旅』の始まり150周年を、2023年『旅』の終わり150周年を記念してきた。今年5月にロザリオ行列とミサ、7月に高校生による演劇、そして今回の十字架山殉教祭を通して、信仰を受け渡されたことへの感謝を新たにした。


2023年9月10日 『旅』の終わり150周年記念 十字架山殉教祭 ミサ説教

「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」
(1コリント1・23)

長崎教区司祭 葛嶋秀信

総流配

 わたしたちは今年「旅」の終わり150周年を記念してきました。150年前の1873年、ようやくキリシタン禁令の高札が撤廃されました。1614年の禁教令から数えて259年ぶり、豊臣秀吉の禁教令(1587年)からすれば286年ぶりの出来事です。
「浦上四番崩れ」によって1868~1873年に全国22カ所に流配されたのは、浦上と十数名の五島・伊王島の信徒を合わせて3,384人にのぼります。「信者たちは洗礼のときかぶった白布を「アニマ(霊魂)の被(おお)い」と言ってかぶり、ほとんど身一つで集まった。乳児を背負ったり、幼児の手をひいている婦人もいた」と書き物に残されています。(片岡弥吉全集別冊2『長崎のキリシタン 信仰の証しと継承』2023年)

「旅」のはなし

 流配された浦上の人々の「旅」については、いろいろな記録から知ることができます。しかし、この苦難に満ちた流配の経験を、人々はまるで楽しい思い出のように皆に語って聞かせてきました。自分たちを捕まえた役人についても、上からの命令でやったことなので、「誰々に拷問された」という話をしなかったとも言います。

十字架山の建立

 どう思いますか? 浦上の信者の信仰のこの強さはどこからでしょう?
本当の強さは、自らの限界や兄弟たちの罪や弱さを知った上で、みんなのためにゆるしを願うところにあると言えるでしょう。

 浦上教会の2代目の主任司祭ユーゼーヌ・プトー神父様は、「キリストの受難の丘ゴルゴタによく似た平郷の丘に、『十字架を建て、償いと感謝の聖地にしよう』と提案した」。そして十字架山(1881年設置)が設けられます。その目的は
・1629年から1857年まで行われた「絵踏み」に対する悔悛
・旅に出るふりをして実際には行かなかった信者に代わりゆるしを願う
・為政者の罪の償い;意に反し信徒への弾圧に加担した者へのゆるしを願う
・250年の禁教と迫害に堪え得ることができたことへの神への感謝、のためでした。

 この長崎、浦上の信仰の復活の歴史は、まだ終わってはいません。続いています。
主の復活の恵みに本当にあずかるため、「死」をそして「苦しみ」をキリストとともに日々体験することが求められています。
長崎の信者の強さは、和解なしには考えられず、悔い改めなしに同じ信仰は手渡せません。信者たちは赦し合うことでキリスト(の愛)を着る者となっていきます。

十字架

 「旅」に向かう信者を見送ったヴィリオン神父様(1868年10月に来崎)の言葉が残っています。大浦天主堂から信者たちが乗せられた港をロケーニュとポワリエ、2人の神父とみていました。
ヴィリオン神父様の涙にむせぶ姿は、キリストの十字架のもとにたたずんだ聖母のそれとよく似ています。

 人々は流配先で、家族や仲間と一緒に祈りながら十字架の苦しみを乗り越えてきました。
旅先で耐え抜いた人、耐え切れなかった人、残って家屋を奪った人、出て行って帰って来たら何も残されていなかった人、その間にあって、ゆるすことができた人、できなかった人、さまざまでした。

 信者として生きていくために、信徒も修道者も司祭も十字架のもとにたたずむ時が必要だと教えてくれます。

キリスト者の真の力について聖パウロは

 パウロの言葉がひびきます。【愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。…希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。…呪ってはなりません。…だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。…愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい】(ローマ12・9-21)。

 この模範とされる態度は【敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい】(ルカ6・27-28)と弟子に命じた主イエスの教えに沿うものです。

新たな迫害を生き抜く

 禁教の高札は取り除かれましたが、世俗化の中で、今は別の〝迫害〟の中にいます。

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(1コリント1・18)、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、…召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(同1・22-25)。聖パウロの教えです。

 キリストの十字架は、それによって律法に対して判決を下すと同時に、この判決文を十字架にくぎつけにし、律法を廃止したのです(コロサイ2・14-15参照)。

 私たちがさまざまなことに対し耐え抜く心をもち、信仰の喜びを自由に表現し宣べ伝えることができるよう、キリストの弟子となって生きる恵みを願いましょう。