3月31日(火)10時30分から浦上教会で聖香油ミサが行われ、中村倫明大司教の主司式、髙見三明名誉大司教と70人余の司祭団の共同司式のもと、参加した多くの人々がともに祈りをささげた。ミサの中で、病者のための油と洗礼志願者のための油が祝福され、聖香油が聖別された。
また、司祭の日にもあたるこの日は、ミサの終わりに司祭叙階の節目を迎えた司祭らと今年司祭に叙階された新司祭のための祝賀式が行われ、聖堂内は温かい雰囲気に包まれた。
※写真は、入堂、説教をする中村大司教、進められるミサの様子、聖香油の聖別、ミサの終わりに紹介を受け席から立ち上がる司祭叙階60年の萩原劭神父(中央)、節目を迎えた司祭らに司祭団代表がお祝いの言葉を伝える様子です。
中村倫明大司教による説教
聖香油ミサ・司祭の日
2026年3月31日(火)10時30分、カトリック浦上教会
今日はまず、司祭の日です。兄弟である神父様方の方を向いて話をさせてください。
信徒の皆さまがたには、背を向けることをおゆるしください。
そして、司祭の日で、うれしくて、話が少々長くなるかもしれないこと、始めからお詫び申し上げます。
(司祭団のほうを向いて)
司教様、神父様方、助祭様、いつも宣教司牧にご尽力くださり感謝申し上げます。
特に、今年、司祭叙階・ダイヤモンド祝をお迎えの萩原劭神父様、おめでとうございます。これまでお世話になっていましたお告げのマリア修道会本部から、昨年、大司教館においでくださって大司教館はほほえましくなっています。
それから、金祝をお迎えの村川昌彦神父様(今日はご都合で来られていませんが)、関口七郎神父様、おめでとうございます。お二人とも、現役を続けてくださっています。どうぞ、金をとられても引退宣言をなさらず、続けてのご活躍をお願いいたします。
銀祝をお迎えの岩本繁幸神父様、尾髙修一神父様、川原昭如神父様(船の都合で来ることができませんでしたが)、古里慶史郎神父様、おめでとうございます。
教区や修道会においてこれまで大切なご任務な受け持ってくださったり、また今でも、教区や修道会の枠を超えて大切なご任務を担ってくださったりもしておられます。これからも、教区のこと修道会のこと、よろしくお願いいたします。
そして、先日、司祭叙階をお受けになりました廣田学神父様、おめでとうございます。年を経てからの召命の道でしたが、よく頑張られました。成人召命の模範や呼びかけ役となってくださいますようお願いしたいと思います。
(会衆の方に振り返って)
それでは、すべての皆さま方と分かち合っていきたいと思います。
レオ14世教皇様が、教皇様になられて最初に出された使徒的勧告『わたしはあなたを愛している』には、「貧しい人々に寄り添うように」というような言葉が表現を変えて何度も何度も登場します。
例えば、
「貧しい人々に向かいなさい」「貧しい人々を大切にしなさい」
「貧しい人々を忘れないように」「貧しい人の側(そば)に立ちなさい」などです。
本の中には「貧しい人々のための教会」というタイトルの一つの章ももうけられています。
また教皇様は、前任のフランシスコ教皇様の使徒的勧告『福音の喜び』を引用なさりながら「神のみ心には貧しい人々のための優先席があります。…神のあがないへとわたしたちが至る道のりのあらゆる場所において、貧しい人々がその道しるべとなります」とまでおっしゃっておられるのです。
実は、すでに、前教皇様が、今回の使徒的勧告と同じ標題の使徒的勧告を出すための準備をしておられたそうです。その望みを現教皇様が引き継がれての、今回の使徒的勧告となりました。
今回の『わたしはあなたを愛している』この使徒的勧告は、昨年の10月4日、アッシジの聖フランシスの記念日に著わされました。
そして、ご存知のように、レオ14世教皇様は、今年の1月10日から来年2027年1月10日までを「聖フランシスコ年」とすることを発表されたんです。
アッシジのフランシスコというと、カトリック聖歌集にあります(歌いながら)~♪ 貧しさを求めて 主のあと慕い ♪~ と始まっているように、彼は、貧しい人に仕え、自らも貧しさを選んだ聖人でした。
それだけではありません。貧しい人や、病者の人、そして、自分の敵にさえ、兄弟姉妹、とそう呼びかけた方でした。
「貧しい人々を優先するように」という使徒的勧告では、いろんな貧しさについて列挙がなされています。
「物質的な生計の手段をもたない人の貧国。
社会的に疎外され、自分の尊厳と能力を生かす手段をもたない人の貧困。
道徳的・精神的な貧困。文化的な貧困。
個人的ないし社会的に、弱い、もしくは脆弱な状態に置かれた人の貧困。
権利も場所も自由ももたない人の貧困」(9)など。
これらの貧困にある人々を優先するようにという、わたしたちの生き方の全面的、根本的な選択の転換を迫っています。もの凄い大転換の要求です。
だからこそ、わたしが述べたいのは、教会を売り払って貧しい人々に、そういうような大改革を行いましょうというのではなく、それだからこそ、身近なことにおいても、そして身近なことにおいてこそ、もっと貧しい人たちに気を配っていくべきではないでしょうかということです。身近なこと、身近な人を疎かにしてはいませんか?
何故なら、身近なところにも、貧しい人たちがおられるからです。
長崎教区は、財政的に豊かというわけでもありません。個々人においてもそうだと思います。わたしたちは、貧しい人たちに、金銭を施していくことなんて、そう簡単にはできません。
でも、わたしたちにできることがあります。そして、しなければならないことがあります。それは、声をかけていくこと、「あなたのことを見捨てていない」ということを伝えていくことです。そして寄り添っていくことです。
有名な善きサマリア人のたとえ話があります。知識も地位もある祭司やレビ人は、追いはぎに襲われ半殺しにされている同胞に対して、たぶん「かわいそうに」とは思ったでしょう。人間だったら、普通そう思います。
でも、彼らは無視するんです。声もかけないんです。近づこうともしない。見て見ないふりをする。道の向こう側を通り過ぎていきます。
けれども、サマリア人は、その人が敵対する間柄であったにもかかわらず、近づき、声をかけ、寄り添って介抱(解放)していくんです。
アッシジの聖フランシスコもそうでした。近づいて、時には抱擁し、そして、敵にさえ「兄弟姉妹よ」と豊かな声かけを行っていきました。
信徒と修道者の皆さま方にお願いがあります。近づいて声かけをお願いします。このわたしたち司祭たちをも無視なさらず、声をかけてほしいと思います。もしかして、わたしたち司祭たちこそ貧しいところがあるかもしれません。本当は、このわたしたち司祭の方から、率先して声をかけていかなければならないんです。なのに、イエスさまのたとえ話の祭司やレビ人のように、行えていないことがあります。申し訳ありません。
毎回のミサにおいて、あの善きサマリア人のたとえ話の場面が、いつも起こっています。
はじめて教会においでになっている人がおられます。久しぶりにおいでになっている方がおられます。いや普段からおいでになっていても、いろんな悩みや悲しみを抱えておられる人が多いんです。みんな貧しい人々です。どうぞ、声をかけてください。
そして、それは皆さんだって同じ、皆さんも「ともにいるよ」って声をかけてもらってください。
教会においでになって、一言も声をかけずに、また声をかけてもらえずに家にお帰りになる方もおられるんです。
「貧しい人に寄り添いなさい」「貧しい人を優先しなさい」。アッシジの聖フランシスコの生き方に学ぶならば、「その方々を、ちゃんと、わたしたちの兄弟姉妹としなさい、わたしたちの家族としなさい」ということでもあると思います。
レオ14世教皇様は、今回の使徒的勧告において、アッシジの聖フランシスコのことをこう語ります。「聖フランシスコの影響は、信仰をもつ人と多くの信仰をもたない人の魂を揺さぶり続け、『歴史を変え』ました」(7)
また、第二バチカン公会議での聖パウロ6世教皇様の言葉を引用し、「よいサマリア人の話は古くからの模範であり、この公会議の精神的理念を方向づける模範です」(7)と、善きサマリア人の話を持ち出されながら、こうまとめておられます。
「わたしは、貧しい人々を優先する選択は、わたしたちが自己中心主義から解放され、貧しい人々の叫びに耳を傾けることができるようになるならば、教会においても社会においても特別な再生を生み出すと確信しています」(7)
信仰を持たない人への声かけ、また信仰を持っている人に対しての声かけも、
長崎教区において、「再生」を生み出すと確信しています。
声かけによって、声をかける相手を変えようとするのではありません。声をかけることによって、このわたしが変えてもらうためです。そして、人々の中にともにおられるキリストと出会うためです。
マザーテレサはおっしゃっいました。「わたしは、一日二度聖体拝領をします。一つはミサにおいて、もう一つは町の中の貧しい人の中においてです」
(司祭のほうを振り返る)
再び兄弟である神父様方、教皇様の勧告『わたしはあなたを愛している』この言葉は、神父さま方よくご存じのように、黙示録第3章の言葉です。聖書通りでは「わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう」(黙示録3・9)となっています。
神さまは、ご自分が、このわたしたちのことを、どれほど愛しておられるのかを人々に、わたしたちに知らせるために、神でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、なさらず、かえってご自分を無にして、僕の身分になり、
人間と同じ者になられ、わたしたちのところにおいでくださり、十字架の死に至るまで、そして、本日も司祭職制定・ご聖体制定において、ご自身をご聖体となされてまで、与え尽くされることによって(2)「わたしは愛している」そう伝えてくださいました。(フィリピ2・6-7)(Ⅱコリント8・9)これがイエスさまでした。
イエスさまの代理者となったわたしたちこそ、このイエスさまのように「神さまは、わたしたちとともにいて、わたしたちを愛しておられる」このことを具体的に人々に伝えていく決意を新たにして、再び、それぞれ置かれた場での宣教司牧に向かっていきましょう。これからも、ご一緒によろしくお願いいたします。
(会衆のほうを振り向いて)
またすべての皆さん、わたしたちにおいて、何よりも乏しいこと、最大の貧困は、キリストを知らないということです。いや、本当はともにおられるのに、それに気付いていないことです、
ですから、貧しさに対しての一番の援助は、金銭を与えることも大切ですが、それ以上に、わたしたちこそができること、一番の富、キリストを伝えることです。一番の豊かさは、キリストとともにあることです。このことを、今日も確認いたします。
どうぞ、「主はともにおられる」このことを、実際に声をかけながら伝えてまいりましょう。そして、このわたしたちこそ「主がともにおられる」このことを、実際に声をかけ、教会の第一の使命である福音宣教という体験を通して、このわたしたちも気付かせてもらいたいと思います。
どうぞ、これからも一緒に、声をかけて、貧しい人たちのための教会となっていきましょう。
(説教ここまで)









