当日のミサの映像はこちらから視聴できます。→ 日本の信徒発見の聖母記念ミサ 2025 https://www.youtube.com/live/JzVbt9qhb0s?feature=shared
日本の信徒発見の聖母の祝日である3月17日(月)、19時から大浦天主堂で記念ミサが行われた。長崎教区主催、長崎南地区評議会担当。
ミサは、中村倫明大司教の主司式、髙見三明名誉大司教と約20人の司祭団の共同司式により行われ、東京など他教区からの参加もあり、司教、司祭、修道者、信徒ら合わせて約250人がともに祈りをささげた。
今年は1865年の「信徒発見」の出来事からちょうど160年だった。3月17日は以前は「記念日」だったが、教皇庁の認可を受けて日本の教会固有の「祝日」となり、日本の教会は信徒発見150周年を迎えた2015年から「日本の信徒発見の聖母の祝日」としてこの日を祝うようになった。
写真は、説教師を務める中村大司教と歌を歌う滑石教会の子どもたち、説教に続くミサの様子(右側に写っているマリア像は「信徒発見の聖母子像」、ライトアップされた大浦天主堂と手前は天主堂下の庭園にある信徒発見100周年記念碑(レリーフ)。
中村倫明大司教による説教
日本の信徒発見の聖母記念ミサ
2025年3月17日、長崎・カトリック大浦天主堂
(福音朗読 ヨハネ19・25-27)
昨年の12月8日の日曜日、中町教会において、
クリスマスに向けての「子ども聖歌の集い」がありました。
たくさんの参加教会があった中で、優秀賞に輝きました滑石教会の子どもたちが、このミサに参列してくださっています。皆さん、拍手をお願いいたします。
まず、あの時、滑石教会の子どもたちが歌った歌をどうぞお聴きください。
曲名は、「ワレラノムネ アナタトオナジ」です。
♪ 遠い東の国日本の 長崎大浦に 教会を建てた プチジャン神父
この国のどこかに生きている 神の子らに
会えるその時を 待ちわびながら
われらのむね あなたとおなじ はるかな時を超えて
生きよう 伝えよう キリストの愛を
ワレラノムネアナタトオナジ いのちを賭けて信仰を証しした 浦上キリシタン
サンタマリアのご像はどこ? 見つめる瞳
御子いだく 母の手に 溢れる涙
われらのむね あなたとおなじ はるかな時を超えて
生きよう 伝えよう キリストの愛を
生きよう 伝えよう キリストの愛を ♪
ありがとうございました。
いま子どもたちが歌ってくださったように、
今から160年前、浦上のキリシタンたちが、建てられたばかりのこの大浦天主堂にやってきて、当時の主任司祭、プチジャン神父様に、
「わたしのむね あなたとおなじ」と告げました。
プチジャン神父様は、250年、260年にも及ぶ長い迫害期間があったにもかかわらず、しかも、司祭が一人もいない時代が続いたにもかかわらず、
それでもここ長崎にキリシタンたちがいることを知ります。
世界におけるキリシタン史上、類をみない奇跡だと言われています。
この時の感動的で素敵な出来事のことを「信徒発見」と申します。
そして、本日は、その信徒発見のちょうど160年目という記念すべき日です。
ところが、この「信徒発見」という呼び方は、プチジャン神父側からの言い方であって、逆に、ずっと信仰を守り続け、司祭を待ち続けて、ここに足を運んできた信徒側からすると、「自分たちがやっと司祭を見つけたんだ」ということで、
あの出来事は「神父発見」だったんだという言い方をしたりもするんです。
するとあの出来事の、より正確で好ましい表記は「信徒発見」なのか、それとも「神父発見」なのか。いやいや「信徒発見」「神父発見」そのどちらもです。
司祭の方は、信仰を伝えるために、どうにかして日本に入ることができるようにと、ずっとその機会を狙っていました。そして、どうにかして信徒を見つけるために教会を建て、その教会の正面には、十字架だけでも教会とわかるのに、
お店の看板のように、日本語の大きな字で「天主堂」と記し、
さらに、当時3つあった尖塔全部に十字架を立て、それを金色にしました。
一方、信徒たちは、まだまだキリスト教禁令がしかれている中、
見つかったら捕えられ殺されるかもしれないという状況にあっても、
命の危険を顧みず、この教会にやってきます。
それまでだって、キリシタンたちは「信仰を捨てれば、命は助けてやろう」と役人たちから言われようとも、信仰から離れず、長い時間と迫害の歴史の道のりの中を、信仰のバトンを落とすことなく、次の世代に次の世代にと受け渡して続けていたんです。
160年前のあの出来事は、司祭側の思いは信徒たちから離れていなかったし、
信徒側からだって司祭たちや教会から離れていなかったことの証しでした。
「ワレラノムネ アナタトオナジ」あの言葉は、信徒と出会った司祭の側の言葉でもあるんです。
あれから、160年たった今、「若い人たちは教会離れをしている」ということを口にしたり、耳にしたりします。教会にやって来る若い人たちが減ったというんです。
でも、本当は、「教会の方が若い人たちから離れてしまっているんじゃないか」とそういうことも言われています。
そういう中で、滑石の子どもたちは、こうやって、平日なのに、またこんなに遅い時間のミサなのに、大浦から遠いのに、やって来ている。それは、ご両親や教会の皆さんが、この子どもたちにともに寄り添ってくださっているからです。そして、このミサに「行かないか」「一緒に行こうよ」「行って聖歌を歌わないか」と声をかけてもらったからです。
わたしたちは、離れていませんか。子どもたちから、若い人たちから、周りの人たちから、離れていませんか。寄り添っていますか。声をかけていますか。交わっていますか。
問い直していきたいなと、そう思います。このわたしも含めて。
今一度、わたしたちの信仰が繋(つな)がれていった歴史を思い起こしましょう。
あの160年前の出来事を思い起こしましょう。
司祭も信徒も、人々は、お互いを待ち望み、お互いに歩みより、そして、お互いに声をかけるチャンスをうかがい、準備し、実際に声をかけていくことを実行に移していったんです。
それが「ワレラノムネ アナタトオナジ」の声かけであり、そして生き方でした。
この「同じ」は、もともと神さまの言葉であり、その生き方でした。
わたしたちと「同じ」人間となってくださったイエスさまは、
「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10・30)とおっしゃりながら、
御父と御子の言葉と行いは「同じ」であることを何度も語られた。
例えば
「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行う」(ヨハネ5・30)
「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネ6・38 ヨハネ8・29)
「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。わたしは父が命じられたままに語る」(ヨハネ7・16 ヨハネ8・28 ヨハネ12・50)
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」(ヨハネ15・9)
この「同じ」神さまのみ旨は、わたしたちが救われるということでした。そのために、
イエスさまはご自分のいのちさえ、わたしたちのために捧げていかれた。そのことをよく知っている。
そして、それをいつも教会に来るたびに目の前にしている。
マリアさまのみ旨だって、神さまと「同じ」でした。
お告げの時、神さまの思いを伝えた天使に答えます。「お言葉通り、み旨のままに、なりますように」「わたしの旨は神さまの旨と同じです」
これがマリアさまの言葉であり、生き方だったんです。
そして、このマリアさまとわたしたちに、イエスさまご自身が、
ご自分の胸の内にある「同じ」を明かされたのが今日の福音の箇所(ヨハネ19・25-27)でした。
十字架の上にて、わたしたちにイエスさまはおっしゃいます。
「これがあなたの母ですよ。わたしの母と、あなたの母と『同じ』です」
そしてマリアさまにも
「これがあなたの子ですよ。わたしはあなたの子、ここにいる人たちも『同じ』あなたの子です。みんな同じ神さまの子ども。どうか、マリアさま、お母さん、この人々のことをお願いします、この子どもたちとともにいてください。同じ神さまの子ども」
160年前の人たちも、このことをよく伝え聞いていました。
ですから、あの時、「神父と信徒の『同じ・一つ』」を確かめた浦上の信徒たちは、そのもう一つの大切な「同じ」を確かめたかったんです。
浦上の人たちは尋ねます。「マリアさまのご像はどこ」
そしてプチジャン神父様に案内してもらったマリアさまを見て、
人々は歓喜して言いました。「おん子さまを抱いておられる」
マリアさまに抱かれているおん子さまを見て、それと「同じ」ように、
このわたしたちも神さまの子どもとして、マリアさまの子どもとして抱きしめてもらっているという、その「同じ」を確認したんです。
信徒発見のマリアさまのお姿は「どんなことがあっても、わたしたちは、あなたたちとともにいるよ。あなたたちを見捨てないよ。抱きしめているよ。いつもともにいる」そういう、神さまとマリアさまのわたしたちへの声かけだったんです。
どうぞ、今日も、神さまやマリアさまの「同じ」この思いや生き方、
そして160年前の司祭と信徒の「同じ」この言葉と生き方を確かめましょう。
そして、今日のわたしたちも、同じく一つになって、いつになっても変わることのない最高に凄すぎる「同じ」これをちゃんと伝えていきましょう。
「いまでも主は、マリアさまは、ともにおられます。どんなときもともにいてくださいます。わたしたちは愛されています」この変わらない「同じ」。時代が変わっても、歴史が動いても、この「同じ」の声かけを、
この信仰をまだ知らないわたしたちの家族や友だちにも、周りの方々にも、
具体的にしっかりと行っていきながら、現代における信徒発見、司祭や修道者召命発見、また福音宣教を行うことができますように、
日本の信徒発見のマリアさまのお取り次ぎを願いながら、このミサを続けて祈っていきたいと思います。
そんな思いを込めて滑石教会の子どもたちが再び歌います。
「ワレラノムネ アナタトオナジ」の4番です。
どうぞ、「これからも人々に寄り添って声をかけていくぞ」という決意をもってお聴きください。
♪ 親から子へ子から孫へと 託された信仰の灯が わたしの胸に
どんな時もどこにいても 離れずに
ともにおられるキリストと 歩いていこう
われらのむね あなたとおなじ はるかな時を超えて
生きよう 伝えよう キリストの愛を
生きよう 伝えよう キリストの愛を ♪
(説教ここまで)