8月9日(金)夕方、長崎大司教区は教区主催の「平和祈願祭」を開催した。新型コロナによる影響で、2020年と21年は浦上小教区主催、22年は長崎中地区主催としてミサを行い、昨年23年は教区主催として予定されていたが、台風の接近に伴い中止となった。原爆投下から79年の今年は、「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5・9)をテーマに5年ぶりにミサとたいまつ行列が行われ、平和を願い、皆で共に祈った。
18時30分、浦上教会で平和祈願ミサが始まった。聖歌が響く中、被爆十字架を先頭に司祭団が入堂。浦上教会信徒代表によって被爆マリア像が奉納され、被爆十字架と共に祭壇近くに据えられた。
ミサは、中村倫明大司教の主司式のもと、米国サンタフェ大司教区ジョン・ウェスター大司教、韓国チェジュ教区カン・ウイル名誉司教、また、酒井俊弘司教(大阪高松)、白浜満司教(広島)、森山信三司教(大分)、髙見三明名誉大司教、駐日教皇大使の代理としてファブリス・リヴェ参事官、30人余の司祭団の共同司式により、国内外の巡礼者を含め総勢約600人が集ってささげられた。ミサの説教師は中村大司教が務めた(*下段に掲載)。
ミサ後、20時に出発したたいまつ行列では、被爆マリア像を先頭に、たいまつやペンライト(400本と200本を準備)を手にした信者らが、浦上教会から平和公園までの道のりをロザリオの祈りを唱えながら歩いた。
公園到着後、聖書朗読に続いて、ウェスター大司教が、核兵器のない世界の実現を目指してメッセージを述べた(*下段に掲載)。その後、黙とうをささげ、学生や青年たちを中心に、聖ヨハネ・パウロ2世教皇と教皇フランシスコの言葉が朗読され、平和を祈った。
※写真は、1・2枚目…平和祈願ミサの様子、3枚目…平和公園に向けてたいまつ行列が浦上教会を出発、4枚目…平和公園の記念像が見える、5枚目…平和公園でメッセージを述べるウェスター大司教。
中村倫明大司教による説教
平和祈願ミサ
2024年8月9日、長崎・カトリック浦上教会
マタイ5・38-48
Excellency Archbishop John Wester
Please allow me to use your name.
つい先ほど、わたしは、意見の食い違いで、アメリカのジョン・ウェスタ―大司教様と大喧嘩をしました。そして、顔を殴られて、いま左の頬が腫れているんです。
今日のこの日のために選ばれた福音は有名なイエスさまの言葉です。
「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5・39)
わたしは思うんです。このイエスさまのみ言葉の広さ深さは、耳で聞いて頭で考えるよりも実際に叩き合った方がよく分かる。だって、今回のわたしたちの大喧嘩だって、片方の頬を打たれて、もう片方の頬を向けることなんてできませんでした。もう片方を向けるどころか、相手の頬を殴り返してやりたいところなんです。
それに、叩かれて、気付いたことがあります。皆さん、おかしいと思いませんか? わたしの腫れあがった頬は、左頬なんです。でも聖書には、まず右が叩かれるとあるんです。でも痛みを感じているのは左の方です。
うそだと思ったら皆さんも行って見てください。二人一組で、お互いに隣の人と向かい合っていただけますか。手を伸ばして頬を叩き合っていただけますか。その時、相手の人から、自分の頬を叩かれると、相手の手は、自分のどちらの頬に当たりますか? 右ですか左ですか?
他人から叩かれる時、その相手の手は、普通、わたしの左に当たるんです。
ですから、今日のイエスさまのみ言葉は、「右を叩かれたら、左を向けなさい」ではなくて、本当だったら「左を叩かれた、右を向けなさい」というのが正しいはず。
でも、イエスさまは、「まず右に当たる」そうおっしゃる。どうしてでしょうか。印刷ミスでしょうか。そんなことはないでしょう。どの聖書にも、そう書いてあるんです。
ある人はこう言います。「イエスさまは、左利きだった。」
確かに、左利きの場合は、イエスさまのおっしゃる通り、相手の右に当たるんです。
でも、大多数の人間は、右利きです。
イエスさまが、少ない人たちにしか、当てはまらないような例えをなさったとは考え難いです。イエスさまは、誰でもが理解し、多くの人が納得するような、分かりやすいお話をなさいます。
では、「まず右に当たる」ということをどう考えたらいいんでしょうか。
実は、右に当たる叩き方があるんです。どうやったら、右に当たるのか? わたしの、この右手の“手のひら”で叩くのではなくて、この右手の“手の甲”で叩く場合です。
叩き方に少なくとも3つの方法があります。
そしてその3つの叩き方は、相手を侮辱するそれぞれ度合いが違うと考えられます。
まず、一つ目の叩き方は、普通に叩いていく平手打ちです。
他人を叩くことはよくないことですが、でも、叩く場合は、これが一番、相手を侮辱する侮辱度が低い叩き方です。何か気に障ることを言われて、すぐカッとなって、手が出てしまう叩き方です。この時には、叩くわたしの手は、相手の左に当たります。
二つ目の叩き方は、ゲンコツで叩くことです。
拳を握りしめるということの中に、憎しみがギューと詰まっているという感じがします。ゲンコツは、相手の真ん中に当たります。ゲンコツは上から下に振り下ろしていくんです。
そして、一番、他人を侮辱している叩き方が、手の甲で叩くというやり方です。
この叩き方は、カッと感情的になって、とっさに手が出るという叩き方ではありません。とてもとても、冷静です。相手のことを、普段からよく思っていないんです。相手をいつもバカにし、軽蔑している叩き方なんです。これが、相手の右に当たることになります。
ですから、今日のイエスさまが、まずおっしゃりたいのは、ただ単に「叩かれた時にはこうしなさい」ということではありません。そうではなくて「どんなに叩かれたとしても」「どれほど侮辱されたとしても」ということです。「徹底的に侮辱されたとしても、それでも」ということです。
しかも、その侮辱を「黙って我慢しなさい」ということでもありません。我慢するだけだったら、右だけを打たせるだけで十分です。なのに、そうじゃない。それ以上の侮辱は無いほどに、最高に侮辱されたとしても、それでも、さらにもう一つを向けなさいとおっしゃるんです。
わたしたちは、ある程度は、相手の失礼を我慢することはできるかもしれません。相手の無礼に対して、何も言わずに忍耐することはできるかもしれません。でも、それは、右側だけの問題です。右側を黙って叩かせればそれでいいんです。
イエスさまの他のみ言葉もそうです。
「下着を取ろうとする者に、上着をも取らせなさい。」とか「一ミリオン行くように強いるなら、一緒に、さらに、もう一ミリオン行きなさい。」
ただ、忍耐し我慢するだけだったら、下着を取る者には、下着だけやればいい。一ミリオン強いるなら、その強いられた一ミリオンだけ行けばいいんです。でもそうじゃない。
ある程度の侮辱に対して、少々我慢したり、少しは、黙って目をつぶって忍耐することはできるかもしれません。でも、さらに喜んで、相手が要求しなかったより以上のものを差し出していく、これは、我慢や忍耐だけではできません。
では、どうすればできるのか。愛することによって、ゆるすことによってです。
でも、これが一番難しい。愛すること、ゆるすことは難しいんです。
でも、今日もしっかり確認したいのは、神さまはそれをなさったということです。そして、その神さまがともにいてくださるということです。
どんなに侮辱されても、このわたしたちのことを愛してくれた。敵となったこのわたしたちを愛してくれた。たとえこのわたしたちが裏切ったとしても、ご自分の命さえ、喜んで差し出してくださった。それほどの愛だったんです。これが神さまでした。
今日わたしたちは、79年目の被爆の日を迎えました。
あの時、人々の顔だけではない、体も、家も町も、そして命も奪われました。
顔だけでも残っていたら、もう一方の頬を向けることができたかもしれません。でも核兵器は、すべてを奪っていくんです。もうゆるすことも愛することもできません。核兵器は絶対になくすべきです。殺人兵器はなくすべきです。
どうぞ、わたしたちに今、顔があるんだったら、人を睨みつけ、冷たくさげすむ硬い顔つきをするのではなく、あたたかく人を迎えるやさしい微笑みでありましょう。
わたしたちに今、手があって、その手に武器を持っているのであれば、あるいは、その手を武器としているのであれば、それを捨て、本来の手の役割、人と手をつなぎ、困った人を助け、人を愛するために抱きしめていく、愛と対話のためのあたたかい手を取り戻していきましょう。そして、平和のためにペンを取り、平和のために祈る手でありましょう。
わたしたちが今、声を出せるんだったら、声を出していきましょう、声を掛けていきましょう。
フランシスコ教皇様は、長崎においでになった時、訪れたすべての場所、爆心地公園でも西坂の丘でも、そして長崎県営野球場でのミサの時にも、わたしたちに同じ言葉を何度もおっしゃいました。「声を上げよう」という言葉でした。
「皆さん声を上げましょう。軍備拡張競争に反対する声を。
人間の行動と人類の運命を巧みに操る全体支配主義と分断を掲げる戦略、
度を超えた利益追求システム、憎悪に拍車をかけるイデオロギーに対して、声を上げましょう。
苦しむ罪なき人を弁護し、その人に仕えるために、声を上げましょう。
真理と正義、聖性と恵み、愛と平和のみ国を告げ知らせる声を上げましょう」
まるで、わたしたちの声上げや声かけが足りないのをご存じであるかのように何度も何度も「声を上げましょう」とおっしゃったのです。
昨年、わたしたち長崎教区は、広島そしてアメリカの二つの教区と「核兵器のない世界のためのパートナーシップ」の宣言を行いました。具体的には、5年前の広島で、フランシスコ教皇様がおっしゃった勧めをもとに(1)核被害を「思い起こし」、(2)核被害を防ぐために「ともに歩み」、(3)核被害から「守る」ことを行いながら、世界の多くの方々と、「核兵器のない世界」の実現を目指しています。
わたしたち長崎教区は、被爆者の声を聴き、原爆について学びながら思い起こす機会は多いです。平和のためにしばしば実際に祈って「歩んで」います。
ただ、日本をはじめ多くの国の人々や政治的指導者に対して、「核兵器禁止条約を支持していきましょうよ、軍事費用を苦しむ人弱く貧しい人たちのために使いましょう」などと「声をあげて守っていく」ということには、まだまだ疎いと思います。
8月2日の長崎新聞の第一面に、原爆に遭った方が街頭でマイクを手にしている姿がありました。そして、彼女の言葉が添えられてありました。
「もう高齢になって動けない人の分も、ひっそり苦しんで亡くなった『埋もれた人』のためにも、声を出さないと。」
わたしたちこそ声を上げ、声を出し、声を掛け合いながら、平和を訴え、福音を伝えていきましょう。わたしたちこそ、それが本当にできるんです。わたしたちこそ、愛しゆるし平和のために働くことができるんです。なぜなら、わたしたちは平和の主のことを知っており、その主がともにいてくださるからです。
それに今日、わたしたちはあらためて被爆のマリアさまを眺めます。顔だけ残りました。でも、その顔は焼けこがれ、両目も失いました。
被爆のマリアさまは、わたしたちにおっしゃっているはずです。
「わたしの代わりに、どうぞ、皆さんの素敵な顔を、素敵な手を、皆さんの素敵な声を、人々の救いのために、平和のために使ってください」
何よりも神さまの手としておいでになったイエスさまは、わたしを叩くためではなく、わたしを裁いて罰するためではなくて、このわたしをゆるし、わたしを癒やし、わたしを抱きしめてくださった。今でもそうです。
今日のミサでもおっしゃいます。「これを取って食べなさい、飲みなさい。これはわたしの体である、わたしの血である」
イエスさまは、神さまのすべてを与える手です。そして、その手さえも与えてくださる方です。それは、イエスさまを頂くわたしたちが、イエスさまと一つになり、わたしたちも神さまの手となって生きるためです。
現在はもう、叩かれた後、どうこうの問題ではなくなりました。
もう一度申します。核兵器が1発でも使われてしまえば、もう一方の頬を向けることさえできなくなります。核兵器は、すべてを奪っていきます。核兵器は絶対になくすべきです。殺人兵器はなくすべきです。声を上げていきましょう。
それに、片方の頬を打たれる前から、もっと積極的に、こちらからまず、対話し愛するための手を差し出していくこと、仲直りやゆるしの手を差し出していくこと、他人を受け入れていくあたたかい手を差し出していくことにも心がけてまいりましょう。
最後に誤解がないように申します。わたしたちの大喧嘩はありませんでした。
ウェスタ―大司教様は、アメリカの中でも反対の意見がたくさんある中で、それでも、“核兵器に反対し、それを廃絶することが、アメリカの責任だ”と訴え、このわたしたちと手をつなぎ、平和のために人生をささげようとなさっています。ありがとうございます。
Excellency Archbishop John Wester
Thank you for working with us for peace.
そして、ここにお集まりの皆さまにも、平和のためのお祈りとお働きに感謝申し上げます。これからもよろしくお願いいたします。
(説教ここまで)
ジョン・C・ウェスター大司教によるメッセージ
平和集会
2024年8月9日、長崎・平和公園
1945年の広島・長崎への原爆投下から79年目を迎え、今日皆さまと共にいることをとりわけ光栄に思います。私と同僚であるジェイ・コグラン氏は、政治的な目的や下心のために日本に来たわけではありません。私たちは、広島と長崎で起こったことを悲しみ、皆さまと共にある、人類同胞家族の一員として来たのです。私たちは、核兵器のない世界、世界の恒久平和への道を共に切り開くことを願って、皆さまのもとを訪れています。
1945年、私たちは敵同士でした。2024年、私たちは友人です。 私たちは、耳を傾け、祈り、行動するためにここにいます。
私たちは今日、耳を傾けるためにここにいます。日本の被爆者の方々の声、米国のダウンウインダー(風下住民)の方々の声に。皆、原子爆弾の使用と開発の影響を被った人たちです。そして、1945年に悲惨な苦しみを味わい、苦しみながら亡くなっていった人々の声に。彼らのささやきはまだ私たちに聞こえています。
T.S.エリオットは、『四つの四重奏曲』の中で、「死者は、生きているときに言葉を持たなかったことを、死んでから話すことができる。死者は、生者の言葉を超越した、炎の舌で話す」と言っています。今日、生者と死者は、私たちに何を語りかけているのでしょうか? 原爆が再び使用されることのないように、再び開発されることのないように、再び保有されることのないように、再び考え出されることのないように、そのために全力を尽くせと。
原爆は、ただ死を目的とした醜悪な発明です。そして、死はこれまでも、これからも、神の計画の中にありません。私たちの創造主、愛に満ちた神は、いのちを存分に与えるいのちの神です。そして、死から生へ、利己から無我へ、罪から恵みへ、闇から光へと立ち返らなければならないのは人間の方なのです。
私たちは今日、祈るためにここにいます。世界が神の恵みの光――原爆の光を凌駕する光――を見ることができますように。私たちは共に心を神にささげて祈ります。暴力、戦争、そして核兵器の存在そのものに終止符が打たれますように。核兵器の保有さえも倫理に反するという教皇フランシスコの大胆な主張を、人々が真剣に受け止めますように。また、世界の指導者たちが、軍拡競争緩和の呼びかけに応えますように。特に人工知能と極超音速兵器の出現を考えると、現在進行中の軍拡競争は以前の軍拡競争よりもはるかに危険です。
私たちは今日、行動するためにここにいます。私たちが提唱する検証可能な多国間核軍縮のための非常に重要な行動の一歩は、世界の指導者たちに対して、核兵器禁止条約に署名し、核軍縮と最終的な核兵器廃絶へ向けて確実に前進するように、世界の市民が懇願し、要求することです。
この条約には93の国が署名していますが、署名した核保有国は一つもありません。これは不名誉なことであり、核兵器を保有する国の指導者たちが、核抑止が機能しているといまだに信じていることの明らかな表れです。これまで抑止力が機能してきたと見えるのは単に運が良かったからであり、これは安心をもたらす戦略ではありません。意図的であれ偶発的であれ、核による大惨事を避ける唯一確実な方法は、あまりにも長い間、世界の幸福を脅かしてきた核の脅威を世界から取り除くことです。
耳を傾け、祈り、そして行動すること。それが、今日ここで皆さまと共にいる私たちの意向です。コグラン氏と私は、この大切な集いに私たちが参加することを許してくださったご厚意に感謝いたします。
私たちは、今日ここで聞いた声を行動に移すことをお約束します。そして、神さまが私たちの努力を祝福してくださるように祈ります。1945年8月に亡くなられた方々の言葉は、私たちの心と魂に響き渡り、核兵器のない世界を実現するための揺るぎない決意に私たちを駆り立てます。
20240809 Remarks of Archbishop John C. Wester of Santa Fe
It is a unique honor to be with you today as we commemorate the 79th anniversary of the bombings of Hiroshima and Nagasaki in 1945. My colleague and I, Mr. Jay Coghlan, do not come to Japan for any political or ulterior motives. We come as members of the one human family who join with you in sorrow over what took place in Hiroshima and Nagasaki. We come to you in the hope that together we will forge a path for lasting peace in our world, a world without nuclear weapons. Although we were enemies in 1945, we are friends in 2024. We are here to listen, to pray and to act.
We are here today to listen to the voices of the Hibakusha of Japan and the Downwinders of the United States, all of whom have suffered from the effects of the deployment and manufacture of atomic weapons. We are here to listen to the voices of those who suffered so terribly in 1945, dying agonizing deaths, whose whispers echo in our ears still. As T. S. Eliot said in the Four Quartets, “What the dead had no speech for, when living, they can tell you, being dead: the communication of the dead is tongued with fire beyond the language of the living.” What are the living and the dead saying to us today? They are telling us to do everything we can to ensure that no atomic bomb is ever used again, is ever developed again, is ever stockpiled again, is ever even contemplated again. It is an obscene invention whose only purpose is death. And death has never been nor ever will be part of God’s plan. Our creative and loving God is a God of life who gives life to the full. Tragically and all too often, it is human beings who bring death into God’s marvelous creation and it is human beings who must turn from death to life, from selfishness to selflessness, from sin to grace, from darkness to light.
We are here today to pray that our world will see the light of God’s grace, a light that outshines the light of an atomic blast. Our prayers join with yours as we lift our hearts to God, pleading for an end to violence, to war, and to the very existence of nuclear weapons. We pray that people will take seriously Pope Francis’s bold assertion that even possessing nuclear weapons is immoral. We pray that our world leaders will heed the call to lower the temperature in this second arms race in which we find ourselves, a race far more dangerous than the first, especially given the advent of artificial intelligence and hypersonic delivery systems.
We are here today to act through our advocacy for verifiable, multilateral nuclear disarmament. One very important action step is for citizens of the world to plead, indeed, to demand, that our world leaders make demonstrable progress toward nuclear de-escalation and eventual elimination by signing the Treaty for the Prohibition of Nuclear Weapons, a treaty that currently has 93 signatory states that have agreed to it. Yet not one country with nuclear weapons has signed this treaty. This is a disgrace and a clear sign that the leaders of countries with nuclear weapons continue to believe that deterrence works. It has only worked to date because of luck and this is not a consoling strategy. The only sure way to avoid nuclear catastrophe, whether intentional or accidental, is to rid the world of this menace that has threatened the well-being of the world for far too long.
Listen, Pray and Act. That is our intention in being here with you today. I thank you for your kindness to Mr. Coghlan and me in allowing us to participate in this important gathering. I assure you that we are committed to putting what we hear today into action, praying that God will bless our efforts. The language of those who perished in August of 1945 reverberates in our hearts and souls, spurring us on with unwavering determination to bring about a world free of nuclear weapons.
(メッセージここまで)