カトリック長崎大司教区


2014年 8月 10日

8月9日 平和祈願ミサ

Blog, by 広報委員会.

2014.8.9平和祈願ミサ DSCN0321 カトリック長崎大司教区は8月9日(土)20時から浦上教会で、髙見三明大司教主司式による平和祈願ミサを行った。今年のテーマは「明日へつなごう平和の願い」。この日予定されていたたいまつ行列は台風の影響のため中止となり、ミサ前の聖堂ではロザリオの祈りが唱えられた。

 集まった約1,000人の信者らは、被爆マリアと共に、世界平和とすべての戦争犠牲者のために祈りをささげた。

 

 

《髙見三明大司教 説教要約》 福音朗読 マタイ14・22-33

今日は69回目の原爆記念日です。“記念日”と言いたくない気持ちですが、あの時の記憶は決して忘れ去られることはないでしょう。わたしは今朝、バチカンからのお客様と一緒に平和公園で行われた平和祈念式典に参列しました。黙祷のとき、原爆で全身やけどを負って亡くなったという母方の祖母、そして二人の叔母、戦後十数年後に原爆症で亡くなった従兄弟のことを思い浮かべ、悲しみをこらえることができませんでした。皆さんの中にも同じように家族を失った方が多数おられると思います。このミサにおいて、原爆で亡くなられたすべての方々の永遠の安息のためにお祈りいたしましょう。そしてわたしたちの心の平和、教会の平和、日本の平和、アジアと世界の平和のために祈りましょう。

 

ところで、ユダヤ人は普段あいさつするとき、「シャローム」と言います。この「シャローム」というヘブライ語が「平和」と訳されています。この言葉は、戦争のない状態の平和だけを意味する言葉ではありません。基本的な意味は「欠けることなく完全であること」です。そこから「健康」、「繁栄」、「成功」、いわゆる「平和」などを意味するようになりました。ですから、「平和」は、犯罪や争いや戦争のない状態だけではなく、神様ともほかの人とも良い関係にあること、心身の健康、家族円満、穏やかで満ち足りた生活を意味します。このようなこと全体が「平和」なのです。一つでも欠けるなら、平和は不完全なものだといえます。

 

とはいえ現実には、完全な平和はなかなか実現できないでいます。日本の社会でも、絶えず殺人、自殺、詐欺事件などいろいろ不幸なことが起こっています。世界の多くの地域で武力紛争が絶えません。このような状況を見ると、わたしたちの世界は平和から遠ざかっているように見えます。しかも、武力は悲しみや苦しみ、憎しみや恨みを生み出すだけなのに、日本人も含めて、あまりにも多くの人が、平和をつくるためには武力が是非必要だと考えています。

 

そこで、今日の福音を読み直してみましょう。

イエス様は、多くの人々にパンを与えて、飢えを満たした後、弟子たちを舟に乗せ、ご自分は祈るために山に登られます。夕方のことでした。パンを増やしたのは、人々の注目を引いて奇跡を見せびらかすためではなく、わたしたち人間の飢えを満たすのは神であること、さらに人のこころを養う糧は自分自身を差し出す愛であるということを示すためです。ここにはイエスの死と復活の意味が込められています。

 

さて、弟子たちは、夕方舟に乗り込みましたが、湖の向こう岸まで行くのに一晩中こぎ続けたようです。確かにガリラヤ湖の横幅は最大十二キロメートルありますから、かなりの距離です。それにしても、夜通し必死でこぎましたが、ガリラヤ湖特有の強い逆風を受けてなかなか先に進みませんでした。これは、わたしたちの平和がなかなか実現しない現状と重なります。どんなに祈り、どんなに訴え、どんなに活動しても、平和は広がるどころか、遠のくばかりです。平和は、弟子たちの舟のように、暗闇の中を、逆風を受けるため一向に前進しません。聖書によれば、“海”や深い“湖”、“夜”の闇、“逆風”などは、さまざまな悪や死の力を象徴しています。それは、まさに平和に敵対して平和をおびやかし、阻み、破壊する力、さらに、いつ終わるともしれない武力闘争のように平和への希望を失わせるような状況を象徴しているといえます。人間の力だけで平和をつくることができないのは、そのためでもあります。

 

ところが、夜明けごろ、つまり午前3時から6時の間、イエス様が湖の上を歩いて弟子たちの方に行かれます。弟子たちは皆「幽霊」と思って恐怖の叫び声を上げました。しかし、「水の上を歩く」という行為は、超人的な離れ技を弟子たちに見せるためではなく、ご自分が自然に対してだけではなく、あらゆる悪と死の力の上に立つこと、すなわち悪と死を支配する力を持っているということを示すためです(ヨブ9・8; 詩編77・20; シラ24・5; ハバクク3・15参照)。また、それができるのは神だけです(詩編107・23-30)。そして、「夜が明けるころ」という言い方はイエスの復活のことを思い起こさせます。実際、復活したイエスは、「明け方に」(マタイ28・1)婦人たちに現れました。ですから、夜が明けるころ湖の上を歩くイエス様の姿は、まさに死に打ち勝って復活したイエス様の姿です。舟の中にいた弟子たちが「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエス様を拝んだということがそのことを明らかにしています。

 

だから弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われます。「安心しなさい」というのは、「勇気を出しなさい」という励ましの言葉です。「恐れるな」という言葉は、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10・28)というイエスの言葉を思い起こさせます。

 

ところで、ペトロはイエスのように湖の上を歩きたいと考えて、イエスにこう言いました。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。彼は、不可能と思われることに挑戦しました。イエスが命じるならできると確信したからです。するとイエスは「来なさい」と言われます。ペトロは言われるままに水の上を歩き、イエスの方に向かいました。しかし、「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけ」ました。イエスのように「水の上を歩く」ということは、悪と死に打ち勝つ愛の業に参与することを意味します。暗闇の中で、逆風をついて進むことだけでなく、水の上を歩くという行為は、人間の力だけでは難しい、あるいは不可能な行為です。それは平和をつくる行為についてもいえることです。しかしイエスは、自分自身を差し出すという地味な、しかし確実な効力をもつ方法で平和をつくられます。パウロがエフェソの信徒への手紙の中で教えているように、「キリストはわたしたちの平和であります。…ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、双方(ユダヤ教徒とそれ以外の人類)をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ2・14-16)。

 

さて、平和を実現することは、闇夜に逆風をついて舟をこいで果てしなく進むようなもの、あるいは水の上を歩くという、一見不可能に思えることかもしれません。しかし、イエス様は、一晩中弟子たちのために祈っておられたように、平和の実現のために奮闘するわたしたちのためにいつも祈ってくださいます。

 

何よりも、イエス様は、水の上を歩くことによって悪と死に打ち勝つ方であることを示し、実際に十字架上で死ぬことによって平和をもたらしました。平和をつくる力は、武器ではなく、自分自身を差し出す愛であるということを示してくださいました。だから、わたしたちは、からだを殺しても魂を殺すことのできない悪の力を恐れる必要はなく、ご自分の愛によってすべての人々の間に平和をつくってくださるイエス様に絶対的な信頼を置くことができます。

 

もちろん、わたしたちはペトロのように、イエス様の方に向かって難しい平和の道を歩こうとするとき、些細なことでくじけたり、平和に敵対する勢力に負けそうになったりするかもしれません。その時はペトロのように「主よ、助けてください」と叫んで助けを求めましょう。イエスはすぐに手を伸ばしてわたしたちを助けてくだいます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われるかもしれませんが、自分の信仰が薄く弱いことをよく自覚し、だからこそイエス様により頼み、その死と復活の力すなわち愛によって平和を実現する道を進んでまいりましょう。

(2014.8.9 平和祈願ミサにおいて)

 

 

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