カトリック長崎大司教区


復活教書

2017年 復活教書 信徒も「宣教する人」に ―福者高山右近に背中を押されて―

大司教 ヨセフ 髙見 三明

 

 主キリストのご復活のお慶びを申し上げます。

 御父のいつくしみは、その独り子イエスのご生涯、特に、全人類の永遠の救いのためにご自身を死に渡し、三日目に復活されたこと、その救いの業が福音として今に至るまで宣べ伝えられ、祝われていることに示されています。

 ところで、一昨年の日本の信徒発見150周年の折に、わたしは「教区シノドス提言」を公布しました。そしてそれらの提言を教区の皆さんが実行に移すのを助けるために「教区シノドス提言推進会議」を設立しました。それは、個人や家庭や小教区レベルですぐに実践できる提言はともかく、教区レベルで優先すべき提言を選択し、その実践を助けるためでした。優先順位は、「カテキスタの養成」(提言6)、「小共同体の推進」(提言2)そして「ミゼリコルディア長崎の設立」(提言8)となりました。現在、その実現に向けて準備をしているところです。

 そこで、今日は「カテキスタ」について述べたいと思います。「カテキスタ」の字義は「口頭で教える者」で、一般に「教え方」「要理教師」と訳されています。教会法典でも、教会の宣教活動にあたってカテキスタは「十分な養成を受けキリスト教生活において秀でて」おり、「宣教者の指導のもとに福音の教えを伝え、典礼行事や愛徳の事業を組織することに献身する」(第785条第1項)信徒を指しています。実は、このような信徒はすでに400年余り前に日本にいたのです。その名は、福者ユスト高山右近です。福者右近は専門的な養成を受けたカテキスタとはいえませんが、すべての信徒が目指すべき「宣教する人」の姿を具体的に示しています。正直「とても右近殿のようにはできない」とおっしゃるかもしれませんが、生きた模範を神様から与えられていることは大変ありがたいし、幸せなことです。

 

 福者右近は10歳の頃洗礼を受け、21歳の頃高槻城主、その12年後に明石六万石城主になりました。しかし2年後、秀吉に棄教を勧告され、棄教を拒むと追放され、翌年金沢城主前田利家の客人となりました。最後には家康の禁教令によってマニラに追放され、殉教の生涯を閉じました。その間、特に高槻城主になってから最期まで、右近はその人間的な才能、信仰の恵みなどすべてをキリスト信者としての生き方として織り上げ、特に福音を伝えることに全力を注いだといえます。

 

1 福者右近には、人間として、人の心を引きつける天分がありました。父ダリオのように、おそらく、人と交わるときは明朗快活、苦しむ同胞に対しては思いやりが深く、慈善を好み、誠実で正直でした。大変バランスと調和のとれた優れた感覚を備え、純潔と平静を愛好し、それに基づいて行動しました。そのため、友人として、助言者として尊敬され信頼されました。

 

2 今のように日本語訳の聖書がなく、要理書も簡単に手に入らない中、最初のうちは他の人と一緒に宣教師や修道士の説教を聴き、明晰な判断力と優れた理解力でわずかの間にキリスト教を正しく理解したようです。また、家臣や友人の武将たちに宣教師や修道士の説教を聴かせるだけでなく、自分も熱心に教えを説きました。話術に長け、話が大変上手だったため、多くの人を信仰へ導きました。特に、信者としての品行の生きた手本であり、皆の保護者でした。右近の模範的な生活が、信者の心を動かす最も良い説教でした。それによって古い信者は信仰を固く守り、新しい信者が生まれました。そして、右近の影響で洗礼を授かった人々が、すぐに他の人々を信仰へ導いていきました。

 

3 神と話す場合、つまり祈る場合には、人との話術にましてさらに達人でした。「右近殿はよく茶室にひきこもり、床の間に御像を置き、長い時間を祈りに捧げていた」(ジョアン・ロドリゲス・ツヅ神父の証言)。茶人としては、千 利休の七哲の一人として名を馳せましたが、彼にとって茶道は、神を模倣し、神との密接な一致に達するのを助けるものにほかなりませんでした。また、ロヨラの聖イグナチオの霊操を人生の重要な節目に行っています。

 彼は、深い内面的な人だっただけでなく、積極的な奉仕活動、特に「慈悲の所作」を実践しました。例えば、右近は父ダリオと共に死者の棺を担ぎました。それは、いかに貧しい人、最下層の人でも名誉ある葬儀をしてもらう権利があること、また身分のある者にとっても進んで死者の世話をすることは、決して名誉を損なうことではないことを身をもって示すためでした。さらに、父ダリオと同様右近も、神の国のために必要なら物惜しみせず、高槻でも金沢でも自費で教会や司祭館を建てています。

 

4 右近には何よりも宣教の熱意がありました。高槻から始まって、明石でも金沢でも、行く先々で、あるいは追放の身にあっても、ひたすら福音宣教に努め、いつも多くの実りを与えられました。彼は、神から恵みとして与えられたものを、神の霊によって知り、霊に教えられた言葉によって説明したのでしょう(Ⅰコリント2・12~13参照)。「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(9・16)。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(9・23)と言って、「折が良くても悪くても」「御言葉を宣べ伝え」ました(Ⅱテモテ4・2参照)。彼は、誰も彼を引き離すことのできなかったキリストの愛に駆り立てられて(ローマ8・35~39、Ⅱコリント5・14参照)、福音を告げずにはいられなかったのです。

 

5 関白豊臣秀吉から信仰を捨てるよう迫られたとき、彼はきっぱりと大名の身分と財産を捨てて信仰を選び取る決断をしました。その後、捕らえられた26人と一緒に殉教する覚悟で金沢から京都へ赴いたそうですが、石田三成の裁量で名簿から外されました。しかし、将軍徳川家康は、キリシタン禁令を全国に布告したとき、信仰を捨てようとしない右近にマニラへの追放を命じます。1614年2月、能登四万石の財産も貴重な茶道具も放棄し、妻と娘と5人の孫を連れて金沢から坂本(大津)へ雪道を歩き、大坂、さらに長崎へ2カ月の旅をしました。マニラに着いて約40数日後、1615年2月3日の夜、63歳の生涯を閉じたのでした。

 「流罪に処せられる間に死ぬ、……そのほか、いずれの場所にあっても辛労難儀の道により死ぬことはマルチリヨである」(『マルチリヨの心得』)と。「マルチリヨ」は、「殉教」すなわち「証し」です。