カトリック長崎大司教区


復活教書

2018年 復活教書 信仰と洗礼の恵みを喜び 感謝する ~若者へのメッセージ~

大司教 ヨセフ 髙見 三明

 

 主キリストのご復活、おめでとうございます。

 さて、150年前の明治元年(1868年)7月に、浦上のリーダー格の信徒114人が津和野と福山と萩に流されました。それは浦上の全信徒の「旅」の始まりであると同時に、日本の教会の復活のための受難と死の始まりでもありました。家族共々の流罪処分でしたので、多くの幼児や子どもや若者も一緒でした。

 ところで、今年10月にバチカンで開催される世界代表司教会議(シノドス)は〝若者たち〟に目を向けます。そこで、わたしも若者へ大切なことを一つ伝えたいと思います。

 

一、長崎教区の若者は今

 昨年「長崎青年の日」準備アンケートの結果(26人の有効回答)から教区の若者の意識と問題が見えてきます。〝ミサと青年会への参加者が非常に少ない〟という根本的な課題があります。原因はさまざまです。① 若者が少ないか、皆無。② 少子化と人口流出。③ 青年会の存在を知らない、また知られるような活動をしていない。④ 中高生の頃(受堅後)から学業や部活、そのほかの理由で教会に来ない。⑤ 豊かな人間関係で培われる「安心」の経験がないため人づきあいが苦手。⑥ 親に連れられて教会に行った親世代は教会への関心が消極的。⑦ 主任司祭による意識の差異、指導者の力不足。⑧ キリスト教が軽視されていると感じて信仰を隠す。⑨ 目に見えない神への信仰が理解できない人の増加。⑩ 教会が魅力ある場所で、教えが価値あるものだと伝えられていない。⑪ 仕事や付き合い、趣味を優先し、祭日くらいしか教会に行かないため日常生活の中で教会や祈りから離れていく。⑫ 各自が他者や教会に無関心、など。

 

二、信仰と洗礼の恵み

 皆さんは、信仰を持っているかどうかを自問し、自分を吟味したことがありますか?(二コリント13・5参照)

 皆さんが洗礼を受けたとき、いつくしみ深い神様は、罪(原罪あるいは自罪)ゆえに死んでいた皆さんを限りなく愛し、キリストの死にあずからせ、キリストと共に復活させて新しいいのちに生き、天の財産を受け継ぐ者としてくださいました(ローマ6・3~4、エフェソ2・4~6、一ペトロ1・3~4参照)。神の望みではなく自分の欲望を優先させるとき、神との関係を失います。霊的な死です。欲望は、神以外のもの(お金、権力、名誉、自分自身など)を神として崇める偶像礼拝、姦淫、敵意、仲間争い、ねたみ、泥酔などです(ガラテヤ5・19~21参照)。しかし、イエス様と共に「死ぬ」とき、イエス様が人間の罪ゆえに殺され、人間を罪から解放するために自分のいのちをささげたように、罪に死に、罪から解放されるのです。そして「キリストと共に復活する」ことによって、「キリストに結ばれて神の子」とされ、「キリストを着る」(ガラテヤ3・27)、つまりキリストにかたどられた「新しい人」(コロサイ3・10)に変容されるのです。言い換えると、聖霊の導きに従って神と人のために生きて、人々の間に愛、喜び、平和などをもたらすのです(ガラテヤ5・22~23参照)。

 皆さんは、神様から愛されていのちをいただき、支えられているだけでなく、信仰と洗礼の恵みをもいただいています。そのことをすなおに喜び感謝する人になってほしい。これらの恵みが皆さんの存在と人生の土台だからです。このほかに絶対に頼れるものがあるでしょうか。イエス様は、皆さんに「本当にわたしに従いたいのか、それとも別の道を行きたいのか」と問いかけておられます(ヨハネ6・67、14・6参照)。皆さんには、キリスト信者としての自覚と確信と誇りを持って生きていってほしいのです。

 

三、各自の召命

 また皆さんは、洗礼によって、民族や文化、言語や肌の色に関係なく、キリストのからだ、すなわち「教会」となり、その部分として役割を果たすよう神様から招かれています(一コリント12・12~30)。実際に、神は教会全体の益となるために一人ひとりに聖霊の賜物を分け与えてくださいます(12・4~7参照)。わたしたちは互いにキリストという同じからだの一部である(エフェソ4・25参照)ことを肝に銘じ、信徒、修道者、司祭としての召命の恵みに喜んで応え、自分自身と世界の福音化に共に邁進しましょう。主の祝福を祈りつつ。