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年頭教書

2019 年頭教書  感謝と信頼の日々 ~宣教の熱意の源~

大司教 ヨセフ 髙見 三明

 

 年頭にあたって、長崎教区のすべての皆様に、新年のごあいさつを申し上げます。旧年中はさまざまな形で皆様方のご厚情をたまわり、まことにありがとうございました。今年もよろしくお願いいたします。

 さて昨年6月30日、長崎の七つの教会を含む「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に正式登録されました。7月には浦上四番崩れの旅の始まり150年、10月には牢屋の窄殉教150年を記念しました。いずれも先祖が貫いた固い信仰を物語る出来事です。わたしたちは、その同じ信仰をこれからも人々に伝えていかなければなりません。「出向いて行く教会」、「宣教する弟子たちの共同体」でありたいと思います(「教区シノドス公式提言」8)。フランシスコ教皇様は今年の10月を宣教月間とするよう全教会に通達されました。そこでわたしは、宣教の意欲と熱意をかき立てるために、神様と人への感謝と信頼の心を共に大切にするよう呼びかけたいと思います。

 

一、神様への感謝と信頼

 浦上四番崩れで捕らえられた高木仙右衛門は、役人に次のように語りました。「いまだなき時より、天主がありて、天地万物をつくり、人間のはじめをつくりました。天主はわれらのまことの親でござる。この御親のほかには何も信じ敬うことはできません。またこの天主の十か条の御掟にもさわらぬことは将軍さま方によくしたがえとありますれば、私の親よりいい伝えらるるには、天主よりほかのものを拝むな、また年貢をよく納め、公役もよく務めよ、とのことなれば、これらのこともよく務め、キリシタンはおかみ(幕府)に一揆をしたこともありません。」

 この信仰は、仙右衛門たちが唱えていた『おらしょ』の「朝の申上」の中でそのまま表現されています。「ぱてる、 ひりよ、 すぴりと さんとの み名をもって、 あめん。天主の御まえに みをとヾめおきて をがむおらしょ。いかに いたつて たつとき三つのぺるそなにまします たヾ一つの天主よ、御みハ このところに ましますとまことにしんじ奉る。御みにひれふして、 なにもなくして天地、 日 月、 そのほかよろづのものをつくり給ひしわれらのたヾ一つのごさくしゃ 御主と、 つヽしんでうやまひをがみ奉る、 あめん」。わたしたちの先祖は、万物の創造主である神様の前に自分がいることを深く自覚して礼拝し祈っていました。神様に深い信頼を寄せ、祈りから始まって祈りで終わる生活をしていたわけです。このような信仰をもって、ある人たちは殉教さえしたのです。つねに神様への深い畏敬と固い信頼が土台にありました。

 わたしは神様から命を与えられたことをありがたく思っています。神様は母親のようにわたしを乳で養い、抱いて運び、膝の上であやしてくださいます(イザヤ66・12)。わたしに対する神様の計らいは「数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても」わたしはなお神様の中にいるのです(詩編139・13~14、17~18参照)。わたしたちが食べて満足し、立派な家を建てて住み、財産が豊かになったとき、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはなりません。むしろ神様に思いを馳せて、「富を築く力を与えたのは神様です」と考えるべきです(申命記8・12~14、17~18参照)。神様は、水で地を潤し、太陽を注いで作物を実らせます。人は労働の喜びを味わい、当然のように神様に感謝します(詩編65・6~14、104・10~30)。ですから、「いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝」(エフェソ5・20)したいものです。

 神様に対しては感謝すると同時に信頼すること、どんなことがあっても(詩編31・10~15参照)、どこまでも神様を信頼することが大切です(イザヤ26・4参照)。神様だけが信頼すべき方だからです(申命記7・9)。主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人、まっすぐな人、憐れみ深く貸し与える人、主に従う人は、悪評を立てられても恐れず、その心は固く神様に信頼しています(詩編112・1~7)。穏やかな心で信頼していることにこそ力があり(イザヤ30・15)、神様に信頼すれば、確かに生かされ(歴代誌下20・20)、神様がよりどころとなってくださいます(エレミヤ17・7)。そして神様に信頼するなら確信するようになります(二テモテ1・12)。

 

二、互いの感謝と信頼

 聖書の中で「感謝」と「信頼」という言葉は、ほとんどの場合神様に対して用いられています。まず神様への感謝と信頼があって、人への感謝と信頼が成り立つということです。聖パウロは、キリスト信者になる恵みと彼らの努力のことで神様に感謝しています。彼らは「今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは永遠の命」(ローマ6・17、22)だからです。コリントの信者たちがエルサレムの貧しい兄弟たちのために献金をしたときも、聖パウロは彼らのよい行いのことで神様に感謝しています(二コリント9・11~15参照)。

 わたしたちは皆日々数えきれないほどの人たちのおかげで生活ができています。身近な家族、友人、同僚、共同体などにお世話になっています。わたしたちはそのような方々に感謝の気持ちを抱きつつ、同時に彼らを通してあらゆる恵みをくださる神様に感謝をささげるようにしなければなりません。

 感謝と同時に信頼し合うことが生きていく上でどれほど大切かはだれもが実感しているはずです。聖パウロは信者にこう書いています。「わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています」(二コリント7・4)。「わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます」(7・16)。信頼関係があるとき、喜びがあり、物事がうまくいきます。夫婦の間、親子、兄弟姉妹の間、司教と司祭・修道者・信徒、司祭と修道者・信徒の間、学校や職場での周囲の人々との間に信頼が必要です。まずは信頼を失わないように言葉や態度に十分配慮し、信頼がなければそれを築き、失ったらそれを回復するよう最大の努力をすべきです。天の国はすでに地上で始まっていますが、信頼しない者同士が永遠の祖国に入ることができるでしょうか。

 「感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕え」(ヘブライ12・28)、「信頼しきって、真心から神に近づ」きましょう(10・22)。神様と人への感謝と信頼があるところに、宣教への決意と熱意が生まれるはずです。