カトリック長崎大司教区


年頭教書

2018 年頭教書  信仰の遺産を福音化に生かしてください ~フランシスコ教皇様の親書から~

大司教 ヨセフ 髙見 三明

 

 長崎教区のすべての皆様に、新年のごあいさつを申し上げます。旧年中は公私共々さまざまな形で大変お世話になりました。心より感謝を申し上げます。本年も神の国と教会のため皆様と共に尽くしてまいりたいと思います。ご協力とご支援をよろしくお願いいたします。

 ところで、昨年9月17日~26日、日本各地を司牧訪問された福音宣教省長官フェルナンド・フィローニ枢機卿様は、日本の司教たちに宛てた教皇様の親書をたずさえて来られ、17日夜、駐日教皇庁大使館の聖堂で司教団代表の司教たちを前に朗読され、その内容を各教区の司祭、修道者、信徒に伝えるようにと要請されました。それで、今年の年頭教書では、その親書の内容を紹介することにします。

 

一、日本の教会の信仰の遺産

 教皇様は、打ち明け話から始められます。「わたしは、日本の教会を考える度に、信仰のために自分のいのちをささげた数多くの殉教者たちの証しに思いを馳せます。ずっと以前から、彼らはわたしの心の中で特別な場所を占めています」それは、パウロ三木と同志殉教者、数えきれないほどの信仰の証人、ユスト高山右近のことです、と言われます。

 また潜伏キリシタンにも言及し、こう言われます。「1600年から1800年代半ばまで自分自身の信仰を捨てないために密かに守りながら生き抜いたいわゆる〝潜伏キリシタン〟については何をかいわんやです。わたしたちはついこの間彼らの再発見150周年を祝いました」

 再び殉教者について「国籍、言語、社会階層、年齢の異なる殉教者や信仰の証人たちの長蛇の群れは、皆同様に神の子キリストへの深い愛を抱いており、『キリストを得るために』(フィリピ3・8)自らの身分や生活の種々の事柄、つまりすべてを捨てたのです」と述べられ、こう結ばれます。「兄弟の皆さん、これほどの霊的遺産を思い起こしながら、わたしは皆さんにお話ししなければならないことがあります。皆さんはその遺産を受け継ぎ、特に最も弱い人々の世話をし、さまざまなところから来る信者を共同体の中に迎え入れるよう努力することによって細やかな配慮をしながら福音化の任務を果たしてこられました。そのことと、文化の推進、諸宗教対話そして環境保全に取り組んでおられることに対して皆さんに感謝したいと思います」

 

二、日本の教会に与えられた福音化の使命

 次に教皇様は日本の教会の宣教の使命について話されます。「もし教会がカトリック、すなわち普遍的であるなら、それは教会が〝外に向かって〟生まれた、つまり宣教するものとして生まれたということを意味します。実際、『キリストの愛』は福音のためにいのちをささげるよう『わたしたちを駆り立てて』(二コリント5・14)います。このダイナミックな動きは、わたしたちが宣教熱を失うなら死んでしまいます。それゆえ『いのちは与えることで強められ、孤立と安逸によって衰えます。事実、いのちをもっとも生かす人は、岸の安全を離れ、他者にいのちを伝えるという使命に情熱を注ぐ人です』」(使徒的勧告『福音の喜び』10項)

 そして山上の説教の中の「あなたがたは地の塩」、「世の光である」(マタイ5・13‐14)というイエスのことばに目を向けさせます。「塩と光は奉仕という役割を果たします。教会は塩としては腐敗から守り味付けをするという任務を持っています。光としては、現実と存在目的についての明確な見方を保証しながら闇の支配を阻止するのです。(…)つまり、塩はほんとうの味付けをし、光は闇に打ち勝たなければならないということです」

 日本の教会も塩と光の役割を果たしてほしいと願いながらも、教皇様は日本の教会の現状はわずかなパン種あるいは小さなからし種のようなものであり、聖職者と修道者が十分でなく信仰を実践する信者も限られているため種々の困難があることを承知しつつ、こう言われます。「イエスはこのような日本の教会に大きな霊的および倫理的な使命を委ねたのです。(…)働き手の不足が、福音化への取り組みを縮小することはあり得ません、むしろ働き手を探すよう鼓舞する機会となります。自分のぶどう園のため終日新たな労働者を探しに出かける主人(マタイ20・1‐7参照)に似ています」

 そして教皇様は、さまざまな挑戦を受けているわたしたち日本の教会を激励されます。「親愛なる兄弟の皆さん、今の現実がわたしたちの目の前に突きつける挑戦が、わたしたちを諦めさせたり、まして事なかれ的で停滞させる対話へ戻したりすることはあり得ません。わたしが考えているのは、たとえば、高い離婚率、若者の間にもある自死、社会生活から完全に離れて生活することを選ぶ人たち(「ひきこもり」)、宗教的・霊的形式主義、倫理的相対主義、宗教的無関心、仕事と利潤への執着です。経済的発展の中をひた走る社会は、皆さんの間でも貧困者、疎外者、のけ者を生み出します。わたしは物質的だけでなく、霊的、倫理的に貧しい人たちのことを考えています」そして結論を述べられます。「このような特有の状況の中で、日本の教会はイエスの使命を絶えず新たに選び取り、塩および光となることは焦眉の急です。殉教者と信仰の証人たちの教会であったことに由来する皆さんの教会の真の福音化の力は、守り発展させるべき貴重な財産です」

 

三、召命の促進

 教皇様は、福音化のために召命を育てることの重要性を説かれます。「以上のことに関連して、わたしは司祭と修道者の堅固で統合的な養成の必要性を強調したいと思います。これは今日はびこる《一過性の文化》のゆえに急を要する務めです。このような考え方は、若者たちに、ほんとうに愛することは不可能であるとか、安定したものは何も存在しないとか、愛を含めてすべてのものは状況や感情の要求に関係しているとかいうふうに考えさせるのです。ですから、司祭と修道者の養成におけるより重要な第一歩は、このような歩みを始めた者たちを、イエスが教えてくださった愛を深く理解し体験するよう助けることです。その愛は無償であり、自己犠牲を伴い、憐れみ深い赦しです。この体験は、世の流れに逆行し、裏切ることのない主に信頼することができるようにしてくれます。これこそ日本の社会が渇望している証しです。(…)主が日本にあるご自分の教会に多くの働き手を送り、ご自分の慰めをもって皆さんを支えてくださいますように」

 最後に、教会の諸運動(フォコラーレなど)を福音化に協力するよう招くことの大切さを強調され、次のように結ばれます。「(司教の)皆様方、日本の教会、そして高潔な日本国民の上にわたしの使徒的祝福を送ります。皆さんも祈りの中でわたしのことを忘れないようにしてください」

 今年は明治維新の浦上信徒の〝旅〟の始まりから150年目に当たります。過去を振り返りつつ福音化に取り組むことで将来に対する責任を果たしてまいりましょう。