カトリック長崎大司教区


年頭教書

2016年 年頭教書 神のいつくしみを共に生き、伝えよう

大司教 ヨセフ 髙見 三明

 長崎教区のすべての皆様お一人お一人に、新年のごあいさつを申し上げます。日本の信徒発見150周年を記念した昨年のお恵みを神に感謝すると同時に、お祈りとご協力を惜しまなかった皆様方に心より感謝を申し上げます。

 

1 いつくしみの特別聖年と教区シノドス提言実施元年

 教皇様は、昨年12月8日~今年11月20日を「いつくしみの特別聖年」と定められました。今年から教区シノドスの提言を教区全体として本格的に実施しようとしているわたしたちにとって、摂理的に時宜を得た特別聖年だと思います。なぜなら、そのテーマの「いつくしみ」は、教区シノドス提言の標語の副題と重なるからです。そのためこの副題を年頭教書のテーマとしました。

 教区シノドスの提言が目指している目的は、「わたしたち一人一人の霊的な刷新」です。教皇様も、この特別聖年を「恵みと霊的刷新の特別の時」(いつくしみの特別聖年公布の大勅書3)として過ごすよう望んでおられます。その霊的刷新は、神のいつくしみに真剣に目を注ぎ、わたしたち自身がそのいつくしみを現すしるしとなるということにあります(大勅書3参照)。わたしたちも、教区シノドスの提言を実行に移す中で、神のいつくしみを共に生き伝えることで霊的刷新に努めたいと思います。

 

2 神のいつくしみとあわれみに真剣なまなざしを

 日本語で「慈しむ」は、「愛する、かわいがる、大切にする」ことを意味し、「あわれむ(哀れむ、憐れむ)」は、「①可哀そうに思う、不憫に思う、同情する、②慈悲の心をかける、③めでる」ことを意味しています。

 ヘブライ語で神の「ヘセド」は「忠実」「優しさ」「慈愛」を意味するので、日本語の「慈しみ」に近いようです。ただし、このギリシア語訳の「エレオス」はほとんど「憐れみ」と訳されています。「母胎」や「腸」を指す「レヘム」の複数形「ラハミーム」は、日本語の「憐れみ」とほぼ同じ意味を持っています。実際、『新共同訳聖書』では上記のように訳されています。なお、「ラハミーム」の意味はギリシア語では「スプランクニゾマイ」(腸から憐憫の情に動かされる)で表され、母親が自分のおなかを痛めた子どもを愛おしむ情愛を意味しています。しかし、神のいつくしみは、母親のそれにまさります(イザヤ49・15)。神こそ慈しみに富み、憐れみ深い方だからです(出エジプト34・6、詩編119・156)。すべてをいつまでも愛おしむ神の「いつくしみ」は、苦しんでいる人に対しては「憐れみ」となるといえます。

 では、神のいつくしみはどこにあるのでしょうか。天地創造も神の民のエジプトからの救いも、神のいつくしみの現れです(詩編136)。この地は神のいつくしみに満ちているのです(詩編119・64)。言い換えると、「神はいつも人類の歴史の中におられます。そこに現存し、すぐそばで先を歩む、聖なるいつくしみ深いかたとしておられるのです」(大勅書6)。とくに、貧しい人や弱い人を助け(詩編86・1~7)、病気や災いから救い出し(詩編103・3~5)、捕囚の民を祖国に帰らせる方です(ゼカリヤ10・6)。神のいつくしみが最もよく示されるのは、民全体であれ(ネヘミヤ9・17、詩編79・8~9)、個人であれ(詩編51・3、イザヤ55・7)、彼らの罪を赦すときです。結局、わたしたちは「永遠に御父のいつくしみのまなざしのもとにあり続ける」(大勅書7)のです。

 

3 キリストのすべてが神のいつくしみ

 イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14・9)と断言されました。つまり、イエス・キリストは、父のいつくしみのみ顔です(大勅書の表題)。顔はその人を現します。イエスは、そのことばと行い、その現存全体を通して、神のいつくしみを明らかになさいます(大勅書1、9)。

 イエスのいつくしみは感情にとどまりません。人それぞれに必要な癒やし、赦し、よみがえりとなるのです。重い皮膚病の患者を深く憐れみ、手で触れて癒やされます(マルコ1・41)。食べ物を持たない群衆をかわいそうに思うとパンを与え(マタイ15・32)、飼い主のいない羊のような群衆を深く憐れむと、病人を癒やし(マタイ14・14)、教えを宣べます(マルコ6・34)。一人息子を亡くしたやもめを憐れに思うと、棺に手を触れて息子をよみがえらせ、母親に返しました(ルカ7・13~14)。イエスのたとえの中の善いサマリア人も同様です(ルカ10・30~37)。

 神は、自分のことしか考えない身勝手な放蕩息子を忘れたことはなく、帰ってくると「憐れに思い」走り寄って首を抱き、以前の息子以上の扱いをして喜びを表す父親です(ルカ15・11~32)。イエスは、安息日に病気を癒やしたために安息日のおきてを破ったと非難されました(ルカ13・10~17)。しかし、神が望まれるのは、おきての厳守や祭儀への参加だけではなく、実際の憐れみの行為です(マタイ9・13)。神のいつくしみは、正義やおきてを超えて、救いをもたらします(大勅書20~21参照)。それは、イエスの十字架上の死によって最も強く示されました(エフェソ2・4~6)。神のいつくしみはつねに、あらゆる罪を凌駕するのです(大勅書3)。

 

4 神のいつくしみのしるしとなる

 人間はいつくしみ深い神の似姿です(創世記1・26~27)。だから、イエスは、「あなたたちの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6・36)と言われます。しかも、わたしたちは、神の憐れみによって救われました(テトス3・4~5、Ⅰペトロ1・3~5参照)。だから、わたしたちも同じように行動しなければなりません(ルカ10・37、ヨハネ15・12、フィリピ2・1~5参照)。「慈悲の組」のように心と体に関する14の所作を実践することもその一つです(大勅書15)。

 ところで、まじめに生活していると自認している人が、なぜか神のいつくしみを理解できないのです(ルカ15・25~32)。またしばしば、ほかの人の落ち度を非難したり、裁いたりします。しかし、裁いたり、罪に定めたりするべきではなく(大勅書14)、むしろ、憐れみのこころ〝腸〟を持ち(コロサイ3・12)、赦し合わなければなりません(エフェソ4・32)。ルカ15章では、「いつくしみが、すべてに打ち勝つ力、心を愛で満たし、ゆるしを与えて慰める力として描かれています」(大勅書9)。わたしたちは、このいつくしみを生きるよう招かれています(同)。いつくしみは、「御父のまことの子を見分けるための基準」にもなります。

 従って、司牧活動は常にいつくしむ心で行われるべきであり(大勅書10参照)、信者のことばと振る舞いは、いつくしみを伝えるものでなければなりません。それは、キリストを「信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるため」(Ⅰテモテ1・16)、また、すべての人の心の琴線に触れ、彼らが御父のもとに導く道を再び見いだすことができるよう促すためです(大勅書12参照)。

 浦上カテドラルや地区長教会の「いつくしみの扉」から入って神のいつくしみの恵みをいただき、そこから出て、それを伝えることができるよう、共に祈ってまいりましょう。