コンテンツにスキップするには Enter キーを押してください

7月16日 浦上四番崩れ150周年記念祭(秘密教会の保護の聖人行列とミサ)

 キリシタン禁教令下に起こった、浦上四番崩れ(検挙事件)の始まりから今年7月15日で150年。この節目を記念し、カトリック長崎大司教区は7月16日(日)、「先祖が求めた『信仰の自由』を思い起こし、生きた道を語り継ごう」をテーマに記念祭を行った。

 13時からは4つの秘密教会を辿る行列があり、二つに分かれて(本原方面と大橋方面)ロザリオの祈りを唱えながら浦上教会へと向かった。到着後は聖堂内で、映像を交えながら浦上四番崩れに関する説明を聞き、その歴史を振り返った。

 14時からのミサは髙見三明大司教の主司式により行われた。横浜教区から梅村昌弘司教らも参加し、約30人の司祭団を合わせ、計1,000人余の信者らが共に祈りをささげた。

(写真は1枚目から、行列の出発式が行われたサンタ・クララ教会跡のご像、聖ヨゼフ堂跡からのもうひとつの行列の出発式、ミサ参加のため多くの方が浦上教会に集まる、説教をする髙見大司教、ミサの様子)

 

 

《2017年7月16日(日)浦上四番崩れ150周年記念ミサ 髙見三明大司教の説教》

 

 7月15日の昨日で、浦上四番崩れが始まってから150年になりました。今日は、それを記念して祈るために集まっています。そこで、まずそこに至るまでの歴史を簡単に振り返ってみましょう。

 

1. キリスト教の伝来と繁栄

 1549年8月15日にフランシスコ・ザビエル神父様一行が鹿児島に到着しました。それから60年の間キリスト教は西日本を中心に全国に広まりました。その間には宣教師の追放令が発布され、26人の宣教師・キリシタンが殉教しましたが、信者は現在と同じくらい、つまり40~50万人になっていたといわれます。当時の日本の人口は1200万人ほどでしたから、人口の3~4%がキリシタンだったということになります。

 

2. 禁教時代

 しかし、当時国を治める人たちは、宣教師やキリシタンはヨーロッパの強い国を手引きして日本を乗っ取るかもしれない、と強い疑いを持ち、そのために徹底して彼らを排除しようとしました。こうして徳川家康は、1614年に全国に禁教令を布き、1630年代前半頃から、いわゆる“鎖国”時代に入りました。1600年代前半に少なくとも5,000人をくだらない宣教師や信者たちが殉教しました。1643年頃マンショ小西神父様が殉教すると、日本には一人の司祭もいなくなりました。

 

3. 禁教の理由

 それにしても、なぜキリスト教は禁じられたのでしょうか。主な理由は3つあると思われます。第一は政治的な理由です。日本の統一を目指した豊臣秀吉も、統一を成し遂げた徳川家康も、ヨーロッパで覇権を握り、フィリピンを占領していたスペインが日本をも侵略するのではないか、その際、宣教師とキリシタンたちが手引きをするなど協力するのではないかと恐れ、そのため、彼らを徹底して排除しようとしました。第二は思想的な理由です。宣教師たちは、すべての人は神の前でも人の前でも平等である、と教えていました。また「慈悲の組」の精神と活動に代表されるように、貧しい人や病人などを大切にしました。しかし、そのような思想は、為政者にとっては危険なものでした。なぜなら、貧しい人たちは、不満のはけ口として徒党を組んで反乱を起こしかねなかったからです。第三に宗教的理由がありました。豊臣秀吉の『伴天連追放令』と徳川家康の『禁教令』には次のような共通点がありました。「日本にはすでに神道、仏教、儒教がある。キリシタン(キリスト教)は、日本国内で問題を起こすだけの宗教である。よって、日本国から排除すべきである」と。実際、禁教令にはこう記されておりました。「日本は神国、仏国にして神を尊び、仏を敬い、仁義の道を専らにし、善悪の法を匡す(ただす:ただしくして守る)。」「かの伴天連の徒党、みな件(くだん)の政令に反し、神道を嫌疑し、正法を誹謗し、義を残(そこ)なひ、善を損なふ。刑人あるを見れば、すなわち欣(よろこ)び、すなわち奔(はし)り、自ら拝し自ら礼す。これを以って宗の本懐となす。邪法にあらずして何ぞや。」

 

4. 弾圧と潜伏

 第一に「五人組制」がありました。江戸時代の初め頃(1622~44年)、連帯責任と相互扶助を目的として5軒を一組として編成された、農民や町民を支配するための組織でしたが、キリシタンを取り締まる役割も果たしました。

 第二は「絵踏」でした。1631年頃長崎で始まった絵踏は、初めは信仰を捨てた“転び”キリシタンに背教の証しとして聖画像などを踏ませましたが、後にはキリシタンを摘発するため、またキリシタンではないことの証しとして、あるいは転ばせるために行われ、全国的に毎年正月の行事として行われるようになりました。

 第三は「寺請制度」です。江戸幕府は、仏教によって庶民の思想統一を図り、キリシタンを摘発するために、1635年頃から毎年正月頃に「宗門改」を始めました。これは、住民は必ず、どれかの宗派のどこかの寺の檀家であることとし、檀家がキリシタンではないことを保証する責任を寺に負わせた寺請制度へと発展しました。この宗門改は「高札」撤去と同時に終わりましたが、檀家制度は現在も残っています。

 第四は「切支丹札」と呼ばれた「高札」が全国各地に立てられました。幕府は報奨金を準備して、「邪宗門」の神父、修道士、伝道師、信徒を訴え出るよう(密告訴人)広く呼び掛けました。

 このような弾圧に対して、キリシタンたちは組織を作って信仰を守りました。すなわち、指導者の「帳方」、洗礼を授ける「水方」、指導者の指図を伝達する「聞き役」と「触れ役」がいました。彼らの間で重要なことは、典礼暦(バスチャン様の日めくり)を守ること、『どちりいなきりしたん』、『カテキズモ』を学ぶことでした。特に基本的な教えとして(a) ローマにパーパ(お頭様)がおられること、(b) ローマのパーパが派遣する独身の「コンフェソーロ=聴罪司祭」が来られること、(c) サンタ・マリアを崇敬することでした。

 また、「組」と呼ばれたさまざまな信心会(Confraria)がありました。「聖体の組」、「サンタ・マリアの組」、「ロザリオの組」、「ひもの組」、「慈悲(みぜりこるぢや)の組」です。これらの組に属する人たちは互いに信仰と生活を支え合い、殉教する心構えを養いました。

 しかし、最終的には、表向き寺の檀家になりました。それが生きて信仰を伝える唯一の方法だったからです。しかし、各自のこころのうちと共同体のうちではキリスト教信仰を固く守り通しました。

 

5. 崩れ

 さまざまな方法で弾圧しても生き延びるキリシタンたちに対して、幕府は、一網打尽の大規模な摘発と処分を行いました。これが「崩れ」と呼ばれています。最初の崩れは、1657年から翌年まで大村で起こった「郡崩れ」でした。総勢608人が捕らえられ、うち411人が斬首されました。ほかにも大分や名古屋の方でもありました。

 最初の浦上崩れは1790年。円福寺に88体の石仏を造るための喜捨を拒否したため19人が訴えられました。しかし最後には放免されました。二番崩れは1839年。転びキリシタンの密告によって中心的指導者の4人が捕らえられましたが、全員釈放されたのかどうかは謎に包まれています。三番崩れは1856年でした。帳方(総頭)吉蔵のほか多くの指導的人物が投獄され、ひどい拷問を受けました。吉蔵は牢で亡くなり、帳方も途絶えました。

 そして1867年四番崩れが起こりました。1865年3月の信徒発見がきっかけで、本当の司祭を知って勇気を得たキリシタンたちは、役人の前で公然と信仰を表明するようになりました。その結果、キリシタンの一斉検挙が行われ、リーダー格の信者80人が桜町の牢屋に投げ込まれ、ひどい拷問を受けました。1867年7月15日の早朝3時ごろのこと、長崎奉行所の公事方掛役人が本原郷字平の秘密教会聖マリア堂に踏み込みました。ロケーニュ神父様が信者たちに教理を教え、洗礼を授けるために潜んでいたところでした。神父様は間一髪で裏口から逃げることができました。しかし森山甚三郎、高木仙右衛門ほか中心的な男女68人が捕らえられ、桜町の牢に入れられました。10月になると80人ほどに増えましたが、あまりに過酷な拷問のために仙右衛門一人を除いて皆棄教してしまいました。村に戻った仙右衛門に励まされた棄教者たちは高谷庄屋に行って改心もどしをしたのです。

 イエス様が教えておられるように、仙右衛門は立派に証しをしました。「日本には仏教や神道といういい宗教があるのだから、それを信奉すべきだ」、という役人に対して、彼は「天地万物がないときから神様はおられて、万物を造られたのですから、神様だけがほんとうに敬うべき主です。神仏といってもわたしたちと同じ人間ですので、拝むことはできません。また拝んだとしても後の世の救いも得られません。たとえ殺されても、神仏は拝みません」と答えました。

 江戸幕府は、浦上事件を解決できないでいるうちに倒れ、明治政府が誕生しました。しかし明治元年、御前会議は、浦上の3,400名余りの信徒を20藩22カ所に流罪に処すと決定したのです。ダビデ王朝の滅亡ほど大げさなことではありませんでしたが、故郷と家・土地・財産を残して遠い国に流罪の身となったキリシタンたちは、行った先である者は殉教し、ある者は希望をつないで、時が来るのを待ったのです。

 流罪のことで西欧諸国から強く非難された明治政府は、1873年2月、ついに「高札」を撤去し、キリシタンが浦上に帰る許可を与えました。そしてその16年後、大日本帝国憲法(1889年)第28条の文言を通して、日本人が初めて信教の自由という基本的人権のことを知ることになるのです。キリシタンたちは、禁教令のもとで、国家権力によって基本的人権の一つである信教の自由を侵されながら260年間耐えました。今も、これからも先祖たちに倣い、キリストの信仰と愛の恵みを証ししてまいりましょう。

(説教ここまで)