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11月20日 いつくしみの特別聖年閉幕ミサ

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 教皇フランシスコが定めた、2015年「無原罪の聖母」の祭日12月8日から始まった「いつくしみの特別聖年」が、「王であるキリスト」を祝う11月20日、バチカンの聖ペトロ大聖堂の聖年の扉を閉じることによって閉幕した。地方教会ではそれに先立つ11月13日、年間第33主日に聖年が閉幕することになるが、長崎教区では行事日程の都合により、閉幕ミサが11月20日(日)14時から浦上司教座聖堂(カテドラル)で行われた。

 ミサは髙見三明大司教の司式により行われ、司祭、修道者、信徒ら約800人が聖年を通していただいた恵みに感謝をささげた(写真)。

 

いつくしみの特別聖年開年のミサ

説教 髙見 三明

2016年11月20日(日)王であるキリスト(C)

 

 昨年12月8日に始まった「いつくしみの特別聖年」は、今から2~3時間後に教皇様が聖ペトロ大聖堂の「聖なる門」を閉じることで正式に閉幕します。ローマ以外のすべての教区では、先週の日曜日(13日)にそれぞれの司教座教会つまりカテドラルで閉年ミサが行われました。ただし、長崎教区では、先週上五島地区の合同堅信式が行われたために、今日になった次第です。

 さて、皆さんはこの「いつくしみの特別聖年」をどのように過ごされたでしょうか。わたしたちは昨年3月に「日本の信徒発見150周年」を記念し、その最も重大な教区事業として「教区シノドス」を開催して、提言を決めました。提言の表題は「父の家に帰ろう、そして出かけよう」ですが、副題は「神のいつくしみを共に生き、伝えるために」となっています。ですから「いつくしみの特別聖年」はわたしたちにとってはこの上ない恵みの時となりました。なぜなら、教区一丸となって「神のいつくしみを共に生き、伝えよう」としているタイミングでこの聖年が訪れたからです。

 しかし、「神のいつくしみを共に生き、伝える」という教区の目標がこれからずっと掲げられるのと同じように、「いつくしみの特別聖年」の「主のいつくしみを受け、分かち合う」という趣旨もこれからずっと生かしていかなければならないものです。そのことを、教皇様は、この特別聖年を公布された大勅書の中ですでにこう述べておられます。

 「2016年11月20日、王であるキリストの祭日の典礼祭儀をもって特別聖年は幕を閉じます。その日、聖なる門を再び閉じながら、わたしたちは何よりもまず、この特別な恵みの時を与えてくださった三位一体の神への感謝と賛美の思いを抱くことでしょう。わたしたちは、教会の生命と全人類そして広大な宇宙を、キリストの支配にゆだねるのです。そうすれば、近い将来、すべての人の手による豊かな歴史が作られるようにと、キリストがそのいつくしみを露が降りるようにもたらしてくださるからです。神の優しさと温かさを届けつつ一人ひとりと出会えるよう、これからの年月がいつくしみに浸ることを、わたしはどれほど願っていることでしょう。信じる人にも信仰から遠く離れた人にも、すべての人に、すでにわたしたちの間にある神の国のしるしとして、いつくしみの芳しい香りが届きますように」(大勅書、5)。

 

 ですから、今日、わたしたちは、これからますます神のいつくしみを感じ取り、他の人と分かち合っていく決心を立てたいと思います。神のいつくしみを深く感じれば感じるほど、他の人たちを分かち合う気持ちが強くなるはずです。

 ところで、わたしたちが分かち合ういつくしみは単なる感情の動きだけではありません。こころとからだが伴うはずです。つまりいつくしみはわたしたちの全身全霊の動きであり、働きです。

 しかし実際には、それほど簡単でもありません。たとえば、自分に身近な誰かが病気にかかって精神的にも苦しんでいるとします。しかし、自分には見舞いに行く時間がない、疲れているなどの理由があるかもしれません。相手は嫌いな人、あるいは顔を合わせたくない人かもしれません。さまざまな理由で結局その人のために何もしない、むしろしたくないということも起こり得ます。でも、それは結局自分の都合を考えて、自分にとって都合のよい方を選んでいるのです。

 

 わたしたちは、とくに聖年の間、神のいつくしみは自然の恵みや作物、自分のいのちや毎日の出来事などを通して示されているということに気づかされました。しかし、神のいつくしみは何よりもイエス・キリストのことばやしぐさ、行動、その生涯を通して生き生きとした目に見えるものとなり、十字架の死と復活で頂点に達したのです。今日の第二朗読で、聖パウロが「御子は、見えない神の姿」ですと言っている通りです。

 

 今日の福音は、まさに、イエス様が十字架に釘付けにされている時の場面です。イエス様は、御父のみ旨に従って、わたしたちを、否、全人類を救うために十字架の上でご自分のいのちをささげようとしておられます。イエス様は王ですが、権力を振りかざして人々を圧迫するような王ではなく、自分のいのちを与え尽くすことによって人々を生かし、永遠の幸福へと導く王です。ところが、ユダヤ教の最高法院の議員たちはそのイエスをあざ笑って言います。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と。死刑執行にあたっているローマ軍の兵士たちも侮辱して「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」と言っています。さらに隣で十字架にかけられていた犯罪人の一人も、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」とののしります。ここで「自分自身を救え」という言葉が3回繰り返されています。イエス様にとってこの場面で「自分自身を救う」ということは、死ぬことを止めて十字架から降りるということです。そうすれば死の苦しみを味わうことなく、生き延びていけるでしょう。しかし、もし十字架から降りるなら、人類の救いは成し遂げられないのです。苦しむだけ苦しんだあげく十字架の上で自分をささげ尽くさないなら、その苦しみは何の役に立つでしょうか。自分を救うのではなく、最後まで自分をささげ尽くすことが人々を救うことになるのです。わたしたちも、このイエス様のように自分を救うのではなく、自分自身をささげることによってはじめてイエス様の救いの恵みにあずかるのです。イエス様ご自身、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコ8・35)と仰せになっている通りです。

 わたしたちは、神のいつくしみをいただくだけでなく、そのいつくしみを生き、そして他の人と分かち合うとき、自分自身に死に、自分自身をささげなければ、ほんとうの意味で神のいつくしみを生きることはできないのです。神の最高のいつくしみはわたしたちが永遠のいのちに入ることです。

 いつくしみの特別聖年は今日で閉じますが、むしろこれからが勝負の時です。これからずっと神のいつくしみの生きた証人となるよう努めていかなければなりません。因みに、教区シノドスの提言にもありましたが、キリシタン時代の「慈悲の組」の現代版として「ミゼリコルディア長崎」を設立しようと準備しています。からだに関する7つの慈悲の所作とこころに関する7つの慈悲の所作はいつくしみを生きるための具体的な指針です。教皇様はそのことを強調しておられます。ともあれ、わたしたちが神様のいつくしみを全身全霊で受け止め、そして他の人々に示し続けていくことができるよう共に、そしてお互いのために祈りましょう。