コンテンツにスキップするには Enter キーを押してください

12月13日 いつくしみの特別聖年開年ミサ

2015-12-13いつくしみの特別聖年DSCN1448調整

 12月13日(日)15時から、いつくしみの特別聖年開年ミサが浦上司教座聖堂(カテドラル)で行われ、約500人が参加する中、髙見三明大司教により「いつくしみの扉」が開かれた。

 この日、ほか6つの地区長教会(中町・滑石・相浦・平戸ザビエル記念・青方・福江)と、大浦教会、聖フィリッポ教会(日本カトリック長崎・西坂巡礼所)の「いつくしみの扉」も開かれた。特別聖年にあたり、これら合わせて9つの教会は長崎教区の巡礼指定教会とされた。 (写真は浦上司教座聖堂でのミサ)

 

 

いつくしみの特別聖年開年のミサ

説教 髙見三明大司教

2015年12月13日(日)浦上司教座聖堂

 

 わたしたちは、今年「日本の信徒発見150周年」を記念し、その最も重大な教区事業として、「教区代表者会議」ないし「教区シノドス」を開催して、提言を決めました。すでにとりかかっているところもありますが、来年の4月からは、教区全体が一丸となってその提言を実行していくことになります。提言の表題は「父の家に帰ろう、そして出かけよう」ですが、副題は「神のいつくしみを共に生き、伝えるために」となっています。

 ところで、フランシスコ教皇様は、去る4月、今年の12月8日から来年11月20日の王であるキリストの主日までを、いつくしみの特別聖年とすると公表されました。そしてその理由として、大勅書という文書の中で、次のように述べておられます。“わたしたちはもっと真剣に神様のいつくしみに目を注ぎ、そのいつくしみのしるしとなる必要があります”。

 わたしたちが教区として「父のいつくしみを共に生き、伝えよう」と呼びかけ合っている時に、いつくしみの特別聖年が設けられたのです。これは神様の摂理以外の何ものでもないと思います。さらに大きなお恵みが注がれることを期待しながら、そのお恵みに精いっぱい応えていくようしたいものであります。

 

一、神の“いつくしみ”と“憐れみ”

 さて、神様のいつくしみというのはどのようなものでしょうか。日本語で「いつくしむ」とは、「愛する、かわいがる、大切にする」ことを意味します。これに当たる聖書の言葉には、さらに「忠実さ」とか「誠実さ」の意味もあります。また聖書では、「いつくしみ」と一緒にしばしば「憐れみ」という言葉が使われています。神様のいつくしみを理解するためには、その「憐れみ」も考え合わせる必要があります。この「憐れみ」は、聖書では、子どもを宿す母胎や「腸(はらわた)」を指す言葉ですが、母親が自分のおなかを痛めた子どもを愛(いと)おしむ情愛を意味し、そこから、苦しむ人や悲しむ人を見て、深く同情することをも意味します。これは、「① 可哀そうに思う、不憫(ふびん)に思う、同情する、② 慈悲の心をかける」などを意味する「憐れむ」という言葉とほぼ同じです。

 結局、神様のいつくしみは、「すべてのものをどんなことがあっても愛(いと)おしみ、大切に思うこと」を意味し、神様の「憐れみ」は、そのいつくしみが、とくに苦しみや困難な状況にある人々に向けられるときに用いられる言葉であるといえます。

 では、神様のいつくしみはどこにあるのでしょうか。詩編作者は「地は主のいつくしみに満ちている」(詩編33・5、119・64)と言っています。それは、天地創造から、神の民をエジプトから救い出す行いに至るまで、すべてが神のいつくしみの現れだからです(詩編136)。神は、「すべての人を憐れみ」、「存在するすべてのものを愛し」、「すべてをいとおしまれ」るのです(知恵11・23-26、詩編145・9参照)。神のいつくしみは、とくに、貧しい人や弱い人を助け(詩編86・1-7, 13-16)、病気や災いから救い出し(詩編103・3-5)、追放された人々を祖国に帰らせること(ゼカリヤ10・6)として現れます。神のいつくしみが最もよく示されるのは、民全体(ネヘミヤ9・17、詩編79・8-9)、あるいは個人の罪の赦しです(詩編51・3、イザヤ55・7)。結局、わたしたちは、いつも「御父のいつくしみのまなざしのもとにある」(大勅書7)のです。

 

二、キリストのすべてが神のいつくしみ

 イエス様は、「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14・9)と断言されました。つまり、イエス・キリストは、そのことばと行い、その生涯全体を通して、神のいつくしみを示されたのです(大勅書1, 9)。

 イエスのいつくしみは決して感情のレベルにとどまることなく、人それぞれに必要な癒やし、赦し、よみがえりとなるのです。重い皮膚病の患者を深く憐れみ、手で触れて癒やされます(マルコ1・41)。食べ物を持たない群衆をかわいそうに思うとパンを与え(マタイ15・32)、飼い主のいない羊のような群衆を深く憐れむと、病人を癒やし(マタイ14・14)、教えを宣べます(マルコ6・34)。一人息子を亡くしたやもめを憐れに思うと、棺に手を触れて息子をよみがえらせ、母親に返しました(ルカ7・13-14)。イエスのたとえの中の善いサマリア人も同様に憐れに思うだけではなく、すぐ行動に出ています(ルカ10・30-37)。

 また、イエスは、安息日に病気を癒やしたために安息日のおきてを破ったと非難されました(ルカ13・10-17)。しかし、神が望まれるのは、おきてを厳格に守ることやミサのような祭儀に参加することだけではなく、実際の憐れみの行為、愛のわざです(マタイ9・13)。神のいつくしみは、正義やおきてを超えて、救いをもたらします(大勅書20, 21参照)。

 イエスのいつくしみは、罪の赦しに最もよく示されています。放蕩息子のたとえにあるように、神は、自分のことしか考えない身勝手な放蕩息子のわたしたちを片時も忘れたことはなく、回心して帰ってくると「憐れに思い」走り寄って首を抱き、以前の息子以上の扱いをして喜びを表わす慈悲深い父親のような方です(ルカ15・11-32)。このいつくしみは、イエスの十字架の上の死によって最も強く示されました(エフェソ2・4-6)。神のいつくしみはつねにあらゆる罪を超えるということです(大勅書3)。

 

三、わたしたちは神のいつくしみのしるしとならなければならない

 わたしたち人間は神の似姿です(創世記1・26-27)。ということは、いつくしみ深い神様の似姿であるということです。だから、イエス様は、「あなたたちの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6・36)と言われます。

 しかも、わたしたちは、神の憐れみにより、御独り子イエスの十字架上の死と、それにあずからせる洗礼によって救われました(テトス3・4-5、一ペトロ1・3-5参照)。だから、わたしたちも同じようにいつくしみのわざを行うようにしなければなりません(ルカ10・37、ヨハネ15・12、フィリピ2・1-5参照)。キリシタン時代に活躍した「ミゼリゴルヂヤの組」あるいは「慈悲の組」は、イエス様の教えに従って、心と体に関する14のわざを実践していました。教皇様は、大勅書の中でそのことにも触れておられます(大勅書15)。

 ところで、自分としてはまじめに生活していると思っている人が、なぜか実際には神様のいつくしみをよく理解できないでいる場合があります。放蕩息子のたとえの中の兄がそうです(ルカ15・25-32)。

 またしばしば、わたしたちは、ほかの人の落ち度を非難したり、裁いたりします。しかし、裁いたり、罪に定めたりするべきではなく(マタイ7・1-2; ルカ6・37。大勅書14参照)、むしろ、いつくしみと憐れみのこころ(腸(はらわた))を持ち(コロサイ3・12)、赦し合わなければなりません(エフェソ4・32)。ルカ福音書15章の3つのたとえでは、「いつくしみが、すべてに打ち勝つ力、心を愛で満たし、ゆるしを与えて慰める力として描かれています」(大勅書9)。

 教皇様はおっしゃいます。わたしたちは、このいつくしみを生きるよう招かれています(大勅書9)。いつくしみは、「御父のまことの子を見分けるための基準」にもなります、と。

 従って、司牧活動も常に人々をいつくしむ心で行われるべきですし(大勅書10参照)、信者のことばと振る舞いも、神様のいつくしみを伝えるものでなければなりません。それは、キリストを「信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるため」(一テモテ1・16)、また、すべての人の心の琴線に触れ、彼らが御父のもとに導く道を再び見いだすことができるよう促すためです(大勅書12参照)。

 この特別聖年の間、浦上カテドラルや地区長教会、大浦教会や西坂の聖フィリッポ教会の「いつくしみの扉」から入って神のいつくしみの恵みをいただき、そこから出て、それを伝えることができるよう、共に祈ってまいりましょう。