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2月1日 日本二十六聖人殉教祭

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 2月1日(日)14時から、カトリック長崎大司教区主催、長崎南地区評議会担当による日本二十六聖人殉教祭が西坂公園で行われた。

 今年は日本の信徒発見150周年を機に、長崎市によって修復されたばかりの二十六聖人記念碑を前にして、髙見三明大司教主司式、司祭団50人余の共同司式のもと、各地から訪れた約2,000人の人々が祈りをささげた。

 

以下、髙見大司教による日本二十六聖人殉教祭のミサ説教を掲載します。

【2015年2月1日 日本二十六聖人殉教祭 ミサ説教】

 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。このイエスのことばは、今のわたしたちのこころに、わたしたちの間にこだましています。

 わたしたちは5日に先立って、今日こうして日本二十六聖人の殉教を記念していますが、明後日殉教400年を記念する高山右近、そして、今月19日の大浦天主堂献堂150周年および来月17日に150周年を記念する「日本の信徒発見」との間にはいくつかの共通点があります。ある意味で、これら3つの歴史の点が一つの線でつながっていることに気づかされます。今日はそのことをお話ししたいと思います。

 

1. 「日本」という国のことを考えさせます。

 日本の教会の暦では「日本二十六聖人殉教者」というふうに、「日本」という言葉が頭に付けられています。それは、いかにも日本で最初の列聖された殉教者、日本の殉教者を代表する殉教者ということを表しています。20人の日本人の出身地も、名古屋から長崎まで広範囲にわたっています。また、彼らは世界中で最も広く最もよく知られている日本の殉教者です。

 ところで、豊臣秀吉は、京都から大阪あたりのキリシタンを皆殺しにするように命じました。最初に作られた3,000人余りのキリシタン名簿の筆頭になぜか高山右近の名が記されていましたが、石田三成の配慮で削除され、最終的には26人になったわけです。しかし、高山右近自身は、自分も捕らえられて殉教する覚悟で京都に行きました。結局受け入れてもらえなかったようです。「我世に勝てり」という二十六聖人の映画では、26人が長崎へ向かう途中、細川ガラシヤ夫人とともに高山右近と出会う場面があります。ともあれ、二十六聖人と高山右近は共に殉教の道を歩んでいたのです。といいますのは、高山右近は、その9年前から前田利家の招きで、加賀預けの身だったからです。その高山右近の殉教400周年記念日が、明後日、神戸で祝われます。秀吉は彼をキリシタンの代表的人物と見なしていたし、徳川時代の文献でもキリシタンの大旦那と呼ばれていました。彼は、日本を代表する信徒です。聖フランシスコ・ザビエルの亡くなる年に生まれているのも意味があるのかもしれません。

 また今月19日は大浦天主堂の献堂150周年に当たります。プティジャン神父様は、26聖人が列聖された年の1862年10月に横浜に着き、翌1863年7月に長崎に来ます。すでにその年の初めに着いて、教会を建てるために居留地に隣接する土地を買い、造成を始めていたヒューレ神父様に合流します。翌1864年1月、横浜にいた日本布教総責任者のジラール神父様が長崎に来ると、プティジャン神父様は一緒に、二十六聖人の殉教地を捜しに行きます。そして立山だと断定しました。プティジャン神父様は、新しい教会をその殉教地に建てたいと思いましたが、居留地以外の場所に教会を建てることはできませんでしたので、せめて教会を殉教地に向けて建て、二十六聖人を保護者と仰ぐことにしました。この西坂公園は、わたしたちにとっては巡礼所ですが、実は長崎市の所有地です。しかし長崎市は、日本の信徒発見150周年の機会に、整備してくれました。大変ありがたいことです。南側の柵の1本が白く塗られていますが、それは大浦天主堂の方角を示しています。後で確かめてください。ともあれ、信徒発見は二十六聖人と大いに結びついています。大浦天主堂は、正式には「日本二十六聖殉教者聖堂」と呼ばれます。プティジャン神父様とローケーニュ神父様は、大浦天主堂の保護者二十六聖人の執り成しによって日本の宣教のために祈りたかったのです。

 来月17日は、日本の信徒発見150周年記念日です。プティジャン神父様に信仰を表明した潜伏キリシタンたちは、日本の教会のいわば「残りの者」です。彼らが日本の教会の歴史をつなぎ、日本の教会の復活の「踏み台」になりました。
わたしたちは、日本の宣教と日本の教会のこれからを皆で考えなければなりません。

 

2. もう一つは、信仰生活の中での「堅忍」ということです。

 「堅忍」という言葉は最近教会でもほとんど聞かれなくなりました。しかし、信仰を貫くとき、この堅忍の徳は大変重要です。信仰を生きるための一つの力です。イエスは、「忍耐によって、あなたがたはいのちを勝ち取りなさい」と教えておられます。

 26人は、真冬の寒さと人々の嘲りや罵声の中を1カ月もの間、京都から長崎まで旅を続けました。現代の快適な旅でも、1カ月はとても長く感じます。26人はその痛み、辛さ、苦しさをひたすら耐えて、殉教にたどり着きました。

 高山右近も、信仰を選ぶか、身分と財産を選ぶかの選択を迫られた時、また、家族のことを思い、臣下の家族のことを思う時、少なからず動揺したのではないかと想像します。それでも、堅忍しました。それは殉教の名に値するほどの堅忍の徳だったと思います。教皇シストは、右近に宛てた手紙の中で次のように書いています。「追放という身分から逃げ出すことなく、築き上げたすべての富を失っても、毅然として、神を信じて生きる態度は揺らぐことはありません」と。

 禁教令の下で、260年間、キリシタンたちは、表向きは仏教徒として振る舞いながら信仰を守りました。それはどれほど辛い、苦しいことだったことでしょう。それでも、耐え抜きました。七代も。七代たてば、ローマのお頭様が罪の赦しを与えてくれるパードレ、神父様を送ってくれると信じ、希望したからです。そして、その時が来たのです。

 パリ外国宣教会の神父様たちの堅忍も称賛に値します。信徒発見から20年も前に、日本使徒座代理区長に任命されたフォルカード神父様は、琉球に滞在して、大変不自由な中、日本語などを学び、日本宣教の機会を当てもなくうかがいました。しかし拒否され、なくなく本国へ帰りました。ヒューレ神父様、プティジャン神父様、ローケーニュ神父様も少なくとも2年間琉球で不自由な生活の中で日本へ行く準備をしました。しかし、その時が神様から与えられることになりました。

 

3. 3つ目は「一貫性」です。

 何があっても最後まで信仰を貫き通すということです。26人は、京都、堺、大阪で引き回された後、1カ月の間の過酷な旅の末、長崎のここ西坂で処刑されましたが、途中、神をたたえ、人々に信仰について語り、信仰者の心と態度を一貫して持ち続けました。

 高山右近は、12歳で洗礼を受け、20歳で父の後を継いで高槻城主となります。35歳の時、豊臣秀吉から信仰を捨てるように迫られたとき、領地と身分と財産を捨てて追放されることを選び、26年間、金沢の前田利家の招きで加賀預けの身となりました。その後、1614年の禁教令により国外追放の命令を受けると、雪深い金沢から長崎まで長い旅をし、4月中旬長崎に着きます。半年近い長崎滞在中にイエズス会の霊操という1カ月の黙想をするなどした後、マニラに移送され、マニラで神のもとに召されました。彼は、生涯を通して祈りだけでなく、慈悲の所作を率先して実行した方です。

 禁教令が出た後のキリシタンたちは、仏教徒を装い、踏み絵を踏み、ゆるしを願いながら、洗礼を授け、降誕節と復活節を守り、日々の祈りと「御大切」の実践を試みながら、同じ信仰を一貫して守り伝えていきました。彼らは、二十六聖人殉教者や高山右近と同じ信仰を保ち、伝えていったのです。そのおかげで日本の教会は死に絶えることなく、再出発をすることができました。

 わたしたちは、受け継いだ信仰を、どんなことがあってもぶれることなく、一貫して伝えていかなければなりません。

 

4. 信仰を堅忍のうちに一貫して生きることは、信仰の証しです。

 秀吉は、26人のキリシタンをみせしめのため京都から長崎まで引き回して、人々にキリシタンになるとこのような目に遭うぞというふうにしたのでしたが、結果は逆でした。沿道の人たちはともかく、長崎の人々は彼らの殉教を目の当たりにして、信仰を奮い立たせられました。26人は、キリシタンたちの信仰を強めただけでなく、信者でない人々にも堂々と信仰を伝えました。パウロ三木の最後のことばがそれをよく物語っています。「わたしは何の罪も犯していない。ただ、われらの主イエズス・キリストの教えを説いた、それだけで殺されるのです。わたしはそのことをこよなく喜び、わが主の大いなる恵みに感謝します。今、死を前にして、わたしがどうしてあなたたちを欺くでしょうか。信じてほしいのです。人の救いの道は、キリスト教以外にはないと断言します。あなたたちの迷いをわたしは正したいのです。」

 高山右近は、高槻城主のとき、その人柄と信仰の模範によって、臣下と領民を感化し、15,000人を信者とし、教会も20建立したといわれます。また小西行長、黒田官兵衛などの大名に影響を与えて、洗礼へと導いたのです。金沢から長崎に来る途中、徳川家康が差し向けたと思われる刺客にいのちをねらわれました。それは、公の処刑で殉教する右近を見て、人々がさらに信仰を増し強めるであろうから、密かに亡き者にしようとしたとも考えられます。ともあれ、マニラでは、信仰を守るために身分や財産をすべて失い、国を追われた高山右近は、信仰の模範として大歓迎を受けました。そして400年経った今も、高山右近の信仰者としての生き方は証しの力を発揮しているのです。

 二十六聖人をはじめ数えきれないほどの殉教者の信仰は、潜伏キリシタンたち、中でも、プティジャン神父様に信仰を打ち明けた信者たちにとって信仰の模範でした。浦上から大浦の神父様に会いに行くという時、女性たちは、殺されてもいいから行きたいと言ったといいます。そして、やがて四番崩れが起きますが、高木仙右衛門や守山甚三郎のみならず、皆、役人の前で堂々と自分がキリシタンであることを表明し、いのちをささげることを辞さない気持ちでいました。彼らは、今やいのちをかけて信仰を証ししようとしたのです。

 

 わたしは、今、教会の信仰が風前の灯のようになっていると感じます。信仰をしっかり持ち、堅忍のうちに一貫して生きることが求められています。

(説教は以上です。)